九州上陸作戦
鉄道輸送量の激減
大本営は米軍の九州上陸および関東上陸作戦期日をぴったり予測できていた。日本は一撃講和論をレイテ戦以降,唱えていた。大本営は本土決戦すら目論んでいた。昭和天皇独白録によれば,6月9日に大連会議を終えた梅津陸軍参謀総長が在支全勢力でも米8個師団にしか対抗できないと報告し,中国での米軍との決戦は不可となった。6月12日に,長谷川提督の軍需工場視察結果の報告を受けている。まだ沖縄戦の最中である。日産50本の魚雷が1本に落ち込んでいた。三菱長崎造船所の事だろうか。天皇独白によれば,「海軍の所要魚雷を是非とも作ろうとすれば,陸軍の工場までも全部海軍に回さねばならぬと云う」とある。既に連合艦隊は壊滅して,稼動する水上艦はわずかの駆逐艦,海防艦だけである。海防艦は低速で敵に接近できないから,当時,必要とされた魚雷は潜水艦用と航空魚雷である。45cm 魚雷2本を搭載する蛟龍は終戦まで 115 隻が完成した。終戦時,稼動航行可能な伊号潜水艦は20隻だった。人間魚雷回天を製造する呉工廠は1944年8月に 100 本の製造を求められ,日産3本生産可能とされたが,1944年9月の生産は零であった。海龍は魚雷製造が間に合わなく爆装となったようだ。7月15日における魚雷を搭載する稼動艦攻は148機,陸攻123機であった。魚雷は自動制御を要する複雑な兵器だ。三菱長崎造船所界隈,呉工廠周辺の軍需工場に限らず,3.11震災時に自動車エンジンのピストンリング製造工場被災により全国のエンジン組み立てが影響を受けたように,何か重要部品工場が被災したのだろうか。それとも輸送の遅滞だろうか。1940年に 27994 百万キロトンの鉄道輸送が,内海船舶輸送が船舶不足により,鉄道輸送を強化しようとしたにも関わらず, 1945年に 18650 百万キロトンに激減している。石炭輸送は最重要とされたが,機関車用の良質石炭すら不足していたようだ。鉄道省は 1944,1945 の両年の収入分に相当する被害を空襲により被っている。米艦載機の空爆が交通施設にまだ指向していないとされるのにだ。何が鉄道輸送に支障を来たしたのかわからないが,軍需生産のため必要な物流は崩壊していた。
九州沿岸師団装備の火力
政府は8月10日午前に留保付きポツダム宣言受諾をスウェーデンおよびスイス経由で電報で通知した。8月14日に天皇は陸海軍の要望により永野,杉山および畑の3元帥意見を聞き,彼らは戦争継続を主張している。九州上陸でも,沖縄上陸同様,周辺の種子島と甑島列島の占拠が計画されていた。主目的は鹿児島湾と飛行場建設のための宮崎平野だった。米軍の作戦期間はたった30日を予定していた。沖縄戦での4-8月の想定が短期の6月で終了したためであろうか。日本は8個師団準備していたけど,どう考えればいいのか。沖縄では孤立したたった2個師団で善戦した。参謀本部は西部軍管区に補給はできないと伝えているから,本州からの増援と補給はない。そのような状況下で参謀が九大に捕虜の生体実験を提案した。米軍も上陸作戦のなかで原爆使用を目論んでいた。上陸予定日は12月1日だから,レイテ戦と異なり天候は良く,常時航空近接支援が期待できると判断したのだろう。泥道もなく,ジープの通行は可能だ。制空および制海権を握っているから,舟艇機動もできる。沿岸で阻止されても,離れた地点に再上陸できる。ニューギニアでは西から東へ逃げても逃げても舟艇機動の米豪軍に先回りされた。後退防御を諦め,参謀本部はサイパンの水際防御に回帰した。訓練未了のためとされるが,どうだろうか。日本には大発という舟艇があって,上陸進攻の際,大いに役立っていたが,米軍の反攻とともに魚雷艇がその脅威になっていた。しかも魚雷艇が震洋とレ艇を制圧する様な気がする。魚雷艇の高速を活かして四国,熊本および長崎海岸に出没しただろう。伊江島から P-47 サンダーボルト戦闘機が朝鮮海峡まで出撃しているから,南九州への爆撃はさほど困難でもなかろう。318th Fighter Group がサイパンに上陸した時,護衛空母から73機カタパルト発進している。陸軍戦闘機にも太平洋戦線ではカタパルト用金具を取り付けていたのか。日本海軍の戦闘機隊は定数48機で,予備機を含めると1.5倍だった。そうすると日米で定数が合致する。伊江島の戦闘機隊は 144 機になる。当時の米第3/5艦隊は 1100 機を擁していた。日本海軍はおよそ300 機で真珠湾を奇襲したから,3倍以上の戦力だ。正規空母建艦を1945 年にキャンセルしているから,本土侵攻にはこれで十分と判断していた。九州上陸の際,北部の飛行場は機動部隊機と伊江島陸軍戦闘機が次から次,飛来して覆いかぶさられ,飛び立つのも困難だろう。目論んだ上陸船団への飽和特攻は不可能だろう。日本の航空機は洋上航法の必要のない内戦になる,この期におよんでも,陸海軍の航空部隊は海軍の反対により統合運用される事はなかった。国内飛行場の数から考えると,海軍航空隊は陸軍司令官の指揮下に入るべきだった。陸海軍が運用した多種類の戦闘機種を思うと,生産性は考慮されていなかった。ソ連もMIG,LaおよびYakの戦闘機を次から次,完成度の低い状態で生産した。日ソとも二流空軍の悲しさか。大国の合衆国だけは P-38,P-39,P-40,P-47,P-51,F4F,F6F,F4Uの8機種運用した。護衛空母群の大量の FM-2 と TBM が近接航空支援をする。対空火器のある軍艦でも命中させられるのだから,移動もせず,対空火器のない橋梁,鉄道施設の破壊は容易だろう。電力施設と水道施設は,占領を見据えて空爆が計画されていなかったようだ。米軍は機甲部隊もなしで,たった30日で川内-都農を確保するつもりだった。北部に小倉工廠があっても,弾薬の補給は困難だったのか。1944年度に日本は44千トンの爆薬を生産したのに対し,合衆国は 1143 千トンだった。1945年度の期首でも陸軍は94会戦分の弾薬を在庫していた。全国に薄く配備された爆弾は容易に決戦地に輸送できなかったのであろうか,それとも帳簿上のいつわりの数値か。関門トンネルで陸続きの九州(西部軍管区)に参謀本部は何故,補給しないとしたのだろうか。本土決戦を関東に集中するつもりで,九州は沖縄同様,時間つなぎだったのだろうか。東京防備に備蓄資材を回すつもりだったのだろうか。1945年5月の第3次動員において,師団砲兵隊を有するのは第321師団(東北軍管区)および322師団(東部軍管区)のみ。沖縄戦における米軍歩兵師団は76両の戦車を有していた。7個師団だから 532 両になる。天皇独白によれば,「鹿児島半島の部隊でさえ,対戦車砲がない有様で」とある。西部軍管区隷下の第40軍(77,146,303)の各師団の対戦車に使えそうな火力総数を計算してみよう。
303師団 3次動員 37mm速射砲X9
146師団 1次動員 各連隊(37mm速射砲X4)x4,山砲x8,機動47mm速射砲X12
77師団 師団速射砲隊,独立山砲兵第7連隊
書類上は,少なくとも45門あるけど,果たして,どれだけ12月までに実配備されたであろうか。鉄道から荷降ろしして,道路を自動貨車で牽引する。陸軍は終戦時,航空ガソリンの備蓄は3万kLで一箇月分しかなかった。本来なら,山頂まで,トラクタで牽引するのだが,内地にあったかどうか。となると,馬曳きだ。否,軍馬も枯渇していただろうから,農民から牛馬を徴発する。大砲1門につき,軍馬12頭要した。それもなければ,人力で牽引する。
太平洋戦争は海主陸従の戦いで,米軍の主攻はニミッツ提督が指揮し,従がマッカーサ将軍だった。本土決戦と称して,日本陸軍が米陸軍に決戦を挑むのは妄想に過ぎなかった。日本の主要都市は全て沿岸部にあり,艦載機の行動範囲だった。室蘭釜石とかは戦艦の艦砲射撃すら受けている。九州上陸では鹿児島市も薩英戦争と同じように,艦砲射撃を浴びたのだろうか。水際防御といっても,霧島山麓に追い込まれただろう。霧島には陣地が構築されていなかったから,レイテ戦同様,山陰に潜みながらの抵抗というか退却戦になる。長く伸びた行列は米艦載機の目標になる。とにかく,40軍には火砲がないから米軍の進撃を阻止しようがない。16方面軍(西部軍管区)の補給物資が尽きたら,抵抗も終わりだ。陸軍が本土遊激(ゲリラ)戦を意識したのは3月であった。中野学校を長野に移転して,ゲリラ戦を研究し始めた。少なくとも,マリアナ沖海戦後,研究しなければならなかった。日本陸軍には不思議にもゲリラ戦思想がなかった。防衛戦はどこでもゲリラ戦が基本だ。アメリカの独立戦争は基本的に英正規軍(レッドコート)を敵とした民兵を中心とするゲリラ戦だった。民兵はライフル銃で英軍士官を狙撃して抵抗した。焦土作戦になった。残念ながら,日本陸軍には狙撃ができても山岳を踏行できる歩兵はいなかった。ライフルさえ充足していなかった。幕末時には,日本は世界最大の銃保有国になっていたのに不思議な事だ。戦国末期には槍兵中心から西欧以上に銃兵の割合が多かった。陸軍は仏独に倣い士官に銃を装備しなかった。
戦時緊急措置法
6月には「戦時緊急措置法」が施行され,事実上,日本は軍政下にあった。日本はシナとの戦いで,航空優勢および火力優勢のもと戦った。今度は日本が,シナと同じ境遇に置かれる。第40軍は水際防御を命じられ,1/3が上陸前の艦砲で失われただろう。日本軍事史上,最も濃密な火線を構築したサイパンの水際防御陣地は3日で壊滅した。後は,比島戦のように逃げて抵抗するしかない。一方,米軍は冬の乾いた道路を,トラック補給で前進する。日本には進撃を阻止する火砲がない。軍司令官はミカドの官僚として,県民保護を無視するのか。それとも,配慮するのか。やはり,沖縄の牛島軍司令官と同じになるのではなかろうか。山道を徒歩で北部に脱出しようとする県民は南下する56軍と霧島山地で錯綜する事になる。
日本海軍は7月30日,第5航空艦隊司令部を鹿屋から大分への移動を決定し,鹿屋基地の破壊命令をも出している。地元民の労力なしには基地の拡充は考えられなかった。地元民には見棄てられるという感情があったとされる。当時,宮崎鹿児島県の人口はどれほどであったろうか。宇垣長官は8月3日,大分に将旗を掲げた。九州上陸があれば,西南の役以来の内戦であった。鹿児島市は「1945年3月18日から8月6日まで前後8回にわたる空襲を受け、文字どおり壊滅的な打撃を受け、市街地の約93%を焼失した」とある。東京で50%の消失だから,上陸を想定したものだろうか。薩英戦争の時も,艦砲で町が燃えた。
米軍の機雷封鎖により,朝鮮満州から食糧の海上輸送が途絶え,7月11日から,大都市は8月11日から食糧配給の1割減配が実施された。鹿児島では有明方面まで買出しに出かけたそうだ。第40軍隷下の師団ではどうだったのだろうか。師団主計科が備蓄資材を供出して食糧は確保できただろうけど,新設だとガソリン等の備蓄資材そのものがない。出入りの業者が闇市場で食糧と交換したのだろう。陸軍は軍隊だけでなく市民を取り締まる憲兵を保有してから,業者が内務警察に摘発される事もない。その点,海軍のは対応は冷たく,出入りの業者が闇物資を調達して,警察に拘引されても保護しなかった。
当時の知事,柘植は城山に防空壕を設置とある。検索してみたが,どんな県民の避難および疎開計画を立案したのかわからなかった。川内には原発がある。鹿児島県はどんな原発事故避難計画を立てているか知らないが,「30キロ圏に車両登録されているバス、乗用車の各5割を使い、圏内の住民が一斉に避難する想定。対象人口は、原子力規制委員会の資料を基に約23万人で計算。車両台数や道路事情を考慮した平均的な速度で移動するとした。国道、県道などの主要道と高速道を使う場合は、避難完了までに21時間半」とある。滋賀県湖西の市街地はバイパスがほとんどなく, 161 号線と琵琶湖西縦貫道路が1本だけというような状況で,自動車の半数を使用したら,大渋滞が起きるのは確実だ。鹿児島の自動車保有数が少ないのか,それともバイパス道路整備が良いのだろうか。それとも鹿児島には米軍九州上陸に備えた機動道路が建設されていて,原発避難にも役立っているのだろうか。
終戦末期の人事異動
終戦1箇月前の頃,天皇独白によれば,米軍降下兵による大本営占拠を心配している。首都は近衛兵などで警備していたから,常識的には占拠は不可能だ。降伏に抵抗している陸軍が実は,密かに米軍と通じているのではないかと宮中は疑っていたのかもしれない。実際,8月14日に陸軍省荒尾軍事課長によるクーデタ事件が起きている。合衆国がパナマ侵攻した際,パナマ首都はそれなりに抵抗している。天皇は軍服をお召しになっているが,近衛兵を指揮する権力がない。宮中が直接,警備力を行使したのは,上皇による北面武士の時代まで遡る。天皇の実務は関白摂政が行っていた。鎌倉時代になると,宮中警護は幕府による関東武士への大番役となった。この賦役は関東武士にとり,かなりの負担であった。戦争末期のクーデタは陸軍大臣,参謀総長梅津,東部軍管区司令官田中の同意が得られなく失敗した。天皇独白に「東條人事」と2回出てくる。陸軍大臣および次官のとき,人事権を行使した事を示すのだろう。人脈中心の人事を指すらしい。一部の吏僚にとり情実人事と感じたのだろうか。しかし,軍人といえでも役人であるから,役職に就かないと仕事ができないのだから仕方がない。小磯内閣成立のときの陸軍大臣人事に関して,梅津が山下と阿南を推薦。東條は山下の果断により東條人事が覆るの恐れて,自身が大臣に留任すると言い出した。マリアナ沖海戦の結果,サイパンが失陥し,戦局の帰趨が見えても危機意識がなく,東條は陸軍人事に執着を見せている。上下関係に気配りのできる能吏だったかもしれないが,議論して国家を先導するような指導者ではなかったようだ。
参謀総長梅津 1944年7月18日 駐スイス公使館付駐在武官
東部軍管区司令官田中静壱 3月9日 米国大使館附陸軍武官
陸軍軍務局長吉積 正雄 3月27日 欧州出張
第140師団長物部長鉾 4月1日 輜重兵監
陸軍大臣阿南惟幾 4月7日 陸軍次官
近衛第1師団長森 赳 4月7日
陸軍次官若松 只一 7月18日 ドイツ駐在
官僚が始めた対米戦争は,やはり官僚が戦争を終結させた。東條は阿南がまさか終戦降伏に同意するとは思わなかったのだろう。在京陸軍高官の就任日,在外経験を示す。在京陸軍首脳(阿南陸相、梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監、杉山元元帥第一総軍司令官、畑俊六元帥第二総軍司令官、河辺正三陸軍大将航空総監)は8月14日,陸軍省舎に参集し「終戦の承詔必謹の誓文」に署名誓約した。陸軍省課長以上は同様に,署名捺印をした。官僚が天皇の命に服するのは当然と思っていたが,誓約書を提出するとは意外であった。
まるで,江戸期お家騒動時の領主に対する誓文のようだ。ポツダム受諾反対派が少なからず,陸軍省にいたのだろう。戦国期には,大名は家臣の離反に悩まされ,やたら誓紙を提出させた。主君が間違っているのなら,反逆は不忠にならないとする思想が,中国の儒学におこり,これが水戸の尊王攘夷になっていった。その影響が1945年にもあった。また主君の命令が不当であっても服するという楠正成の湊川精神もあった。草鞋を履いた明治陸軍の農民兵を指揮し,領民と接していた旧士族の国軍と,農民から遊離した陸大出身者に占められた皇軍の違いがあった。彼らは多かれ少なかれ平泉神学に影響を受けていた。皇軍とは士卒と天皇を直結するものである。
満州事変まで皇軍の風紀が保たれていたのに,1938 年には日本兵に風紀紊乱がみられるようになった。1942年には戦時強姦罪が制定されるまでになった。義和団事件では日本兵の風紀が賞賛され,西欧から中国における警察のように期待もされていた。PKF みたいなものだ。九州から一昼夜航行すれば上海だ。だが太平洋戦争の頃には,皇軍に精兵はいなかった。1945 年に動員された兵士の資質は甚だ劣り,窃盗強姦が多く発生した。食糧給与がままならない師団では兵営を抜け出しての盗みだった。中国に派兵され除隊後の再徴兵組みも多かったせいもあるのかもしれない。
捕虜に対する扱いも酷くなった。一次大戦ではドイツ兵捕虜に対して食糧給与は国民より良質だった。二次大戦では捕虜虐待で大森捕虜収容所の捕虜は写真をみると骨と皮だけになった。戦後,共産党幹部が GHQ 指令により釈放された。国民は新聞に掲載された幹部の写真を見て驚いた。飢えていなかった。司法省の道徳は大したものだったけど,大森捕虜収容所の場合,書類上の食糧給与が実際とは異なっていたのか,それとも収容所内で横領があったのか定かでない。戦犯で所長より上級が裁かれていないところからすると,ピンはねがあったのだろう。外戦部隊だけでなく,陸海軍の内務も劣化していたとみるべきか。師団付きの軍医は兵士の健康管理に責任があり,律儀に体重を測定している。補給が途絶え,沖縄戦後,すみやかに終戦になれば,どれだけの自活中の兵士が餓死せずに済んだ事か。
陸軍省官僚の失職
戦犯の対象になりそうもない陸軍の中堅官僚が,何故一撃講和に拘ったか。やはり,国体維持か。ポツダム宣言にある武装解除とは,彼らの失職を意味する。失業だ。将官クラスだと恩給生活があり,大尉くらいだと若く再就職の道もあるだろうが,佐官クラスは家族の扶養を考えたら絶望的だろう。鹿児島のかつての西南の役も禄を奪われた不平士族が中心だった。禄高は少なくても武士の誇りであった。ポツダム宣言を受けて,国際感覚が陸軍より少しあった海軍上層部は米ソ対立を予期し10万トン程度の再軍備は,そのうち必要になるだろうと考えた。残念ながら,陸軍省中堅に信望のあった陸軍大臣阿南は,国際感覚に疎いせいか中堅を統率できなかった。さらに元大臣の東條は士官学校生徒を率いるとまで重臣に広言していた。
陸軍省の中堅官僚がポツダム受諾にゴネたのは,幕末の武士と異なり,失職すると,もはや帰農ができない王朝に寄生していた朝鮮武官のようになっていたからだ。彼らの主張する国体とは天皇を頂点とする武官体制であった。陸大出身者が民間を「地方」と蔑む感性は,かつて京都の朝廷貴族が「地下」と呼んだのと同じ感覚だろう。安易に開戦に同意した海軍の罪も重いが,終戦の最後まで陸軍は日本を振り回した。軍人の生活がかかっていた。陸軍を解散させるのに,米軍という巨大軍事組織を必要とした。あの強大なソ連軍は,ソ連崩壊時に抵抗なしにリストラできたのであろうか。日ソどちらも官僚国家でありながら,不思議だ。ソ連を統治するのは党,軍および組合と教わったのだが。ソ連の軍人は日本と異なり,それなりに実務ができたのかもしれない。一方,ソ連の下士官兵の能力は低く,戦後ソ連の捕囚となった日本兵が掛け算もできない奴らに負けたのかと慨嘆している。ニミッツ提督は,軍縮時,海軍を諦め,ディーゼル関係の会社に就職を考えていたし,ミッドウェーおよびマリアナ沖海戦の現場指揮官のスプルーアンスは電気会社だった。両者はそれなりに,当時の先進技術の実用化を手がけ,実務能力があったのだろう。剣を鎌鍬に代えて帰農する時代は終わっていた。
米陸軍の風紀と軍縮
比島戦で見せた日本兵捕虜のため,どしゃ降りの雨の中,米歩兵がテントを設営したりしたのが,沖縄戦になると風紀が乱れ始め,本土進駐にやってきた新設師団は傲慢で資質が良くなかった。といってもソ連兵および中国兵に比べるとはるかに軍規は良かったが,大戦後,繰り返される戦争で米軍は疲弊している。イラク捕虜収容所の虐待をみても,看守に応募する兵士の資質はかなり低い。ラムズフェルドは腐ったりんごは取り除けとは言ったが,米陸軍の兵科兵種は細かくみると100種にも達する。
合衆国は第二次世界大戦前の地上兵力になりそうだ。米海兵もグアムまでの撤退がはっきりしている。合衆国政府は海兵の辺野古移転とか言っているけど,もう辺野古は政治カードなのだ。米軍の撤退は早い。東條が英霊に申し訳ないと中国進駐に拘った旧陸軍とは違う。出て行ってくれと,宣言したら兵力を引き揚げるだろうが,東シナ海の制海制空は中国が握る。米中間で日本の取り扱いについては,暗黙の了解事項があると考えたらいい。中国は最近,ポツダム宣言を強調しているのもその表れだろうか。
シェール石油革命もあり,合衆国は内向きになる。中間選挙でも TPP は争点になりそうもない。EU対策のための TPP はオプションであって重要性は低い。日本が産する商品は大体中韓で賄えるし,日本の農産物市場も中国に比べるとはるかに小さい。過度に TPP を恐れる必要もなく,過大な期待をよせるのも的外れだ。ただ,TPP による日本の安全を保障する接着剤となる可能性がなくなると,日本の対中リスクは相対的に上昇する。ロシアは嫌な相手だが,各面で競合する中韓よりはましか。ロシアのエネルギおよび日本の内国産物の貿易拡大はどうだろうか。ギリシャはEUの対ロシア制裁でイチゴの90%,桃の60%が影響を被ったそうだ。ロシアは人口も多く,今ではかなりの購買力がありそうだ。
合衆国太平洋艦隊の日本侵攻戦略は,幕末期のペリーと殆ど同じ進路となった。台湾をスルーしたし,沖縄と小笠原を経由して浦賀に来航した。8月28日,米軍は九州に上陸する事なく,厚木には空挺師団が到着,横須賀には海兵が上陸した。長い長い米軍進駐の歴史が始まった。日本陸海軍は千葉県鴨川東岸,多摩川河口,府中,八王子,大月,伊豆半島南端を結ぶラインの内側から退却した。9月3日,鹿屋に米軍が進駐し,鹿児島市庁にも軍政官が着任した。現在,鹿児島には陸自の施設大隊(工兵)がいるだけで,海自の哨戒が中心だ。
宮城を警護する近衛兵は衛士(警察官と兵士)を経て,警察官となり,文字通り陸海軍は解体された。朝鮮動乱とともに日本の軍備が再開されたが,掃海艇を除いて出動する事がなかった。憲法の解釈を巡り,政争が起きた。戦前と戦後の違いを実態からみると,民主主義は衆議院の優越はないにしても戦前から普通選挙が行われていた。天皇は今も昔も実権はない。軍事警察,教育,司法の中央集権は今も一緒だ。鉄道省,逓信省が民営化された位だろうか。軍事警察機構の違いは海保の存在だろう。戦前は水路確定などは海軍の所管だった。そして,自衛隊には軍法がない事だ。政治は変わった。政財官のトライアングルが形成され,国会議員は族議員となり,今や国防族も発生した。防衛次官が汚職で実刑判決に至るまでになった。私の所属会社はこれまで,顧問どまりだった天下りが執行役員になった。規制緩和が紙面をにぎわすが,新しい分野や強化を唄う施策には官の裁量が大きい。知財など施行規則を読んでも,具体的案件になると,どうなるのかさっぱりわからない。基準が実に曖昧なのだ。補助優遇策の拡大もある。これまで政府プロジェクトが巨大企業に限られていたのが普通の大企業に開放されてきた事も大きい。構造汚職とも称された。終戦末期,軍事費は GNP の 90% 以上になった。産業規制は戦前よりも多くなった。竹中の主張する産業育成はまやかしだ。経済学者,官僚が成長する新分野がわかるわけがない。もしそうであるなら,官僚国家のソ連が停滞したのはおかしい。戦前と異なり,中央集権ながら地方自治が導入された事だ。一般に地方自治が強い国家は経済成長が合衆国,ドイツ,スイスおよびスウェーデンのように零成長にならない。日本と似通っているのは中央集権および混合経済のフランスだ。フランスと異なるのは日本の集団主義に対して,フランスは個人主義だ。フランスは日本同様,実に規制の多い国だ。それなのに発展していたのはEUに負うところが大きい。フランスの原発は電力を輸出している。だからイタリアおよびスイスは安心して脱原発に踏み切れた。今ではフランスは欧州の病人とも称される。国家規制による停滞のためだ。TPP は日本と合衆国が妥協しない限り期待できないから,フランス流の改革もできない。徹底した地方分権と自由主義経済のスイスは余りにも,日本と異なり参考とはならない。
広島の土石流災害をみるにつけ,日本の地方自治は貧弱だと思う。県および市の防災土木課で,重機の運転ができる役人がどれだけいるだろうか。昔の日本師団の小銃(ライフル)装備率は極端に低かった。それは少尉以上は銃を装備しないせいもある。少尉は徴兵の兵卒ではなく,官位を有する武官だった。だから,海軍でも海軍兵学校出身の尉官は戦闘機以外の兵器を操作しなかった。兵器を操作しない士官が操作を講義するという奇妙な状態だった。この悪弊は現在の公立学校でも残り,英語を話せない国家資格の教師が今でも英語を教える実務軽視の風潮が絶えない。
陸自の災害出動は良い訓練になる。特に工兵は教官の教える教本と異なり,現場に即した実地訓練となる。昔,成績優秀の陸士出身者は全て歩兵科を希望した。米陸軍士官学校の最優秀は工兵となる。ローマ帝国来の伝統だ。築城道路建設は防衛の基本なのだ。しかも専門知識技量を要する。戦国時代の合戦は陣地構築が勝敗を分けた。有名な武将は普請でも優れていた。失敗を重ね,地勢を判断し優れた陣地を構築出来た者が最終勝者となった。その最後が家康だった。元和偃武以降,その戦争技術は忘れ去られ天草の乱で幕府軍は苦しむ事になった。幕末には築城及び陣地構築技術が全く退化して,西欧列強の軍人に嘲笑されるまでになってしまった。米陸軍工兵は日本の文科省建設局,国土省建設局などの各省建設局を合わせ,さらにゼネコンおよび下請け事業者を足したものだ。設計から施行まで行う。TVでミシシッピ川氾濫の排水について,軍服の陸軍中尉がインタビューに答えていたのが印象的だった。ガダルカナルの攻防は補給が全てのように語られる。確かにそうなのだが,白兵突撃により中国では夜襲突破できた陣地が抜けなかった。確かに砲兵は夜間,射撃できないが,米海兵は照明弾を使用し,防御戦に達する前に,日本兵を迫撃砲で損耗させた。それを支えたのは迅速な米海兵陣地構築と火力の差がある。米海兵は日本陸軍の戦法を研究していたのである。17軍は通常は1箇月半の糧食携行を2週間分で各部隊を送り出した。現地では食糧がないから,砲兵観測所となる高地を奪取する暇がなく,夜襲奇襲の繰り返しとなった。参謀本部派遣の辻参謀に至っては,「駆逐艦による兵力及び弾薬、糧秣の輸送は敵機の揚陸妨害に依り計画の概ね2分の1程度なると。揚陸点より第一線までの補給は夜間、人力のみに依り辛うじて3分の1前後を前送しうる状態に在り」と打電しながら,補給に支障がないとまで報告している。素直に読めば,1/6 に減少する。海の補給路より陸の補給路の方が酷かった。その道は「丸山道」と呼ばれた。第2師団が攻撃発起点まで展開するのに8日要した行程だ。不思議なのは,飛行場まで達したとしても,火力がないから保持できないし,後続部隊がないから連絡線が断たれてしまう。
日本海軍は米海軍との艦隊決戦を志向し,日本陸軍は重慶政権の屈服を目指した大東亜戦争であったが,艦隊決戦は生起せず,水陸両用戦がマレー戦から最後の沖縄戦まで続いた。日本軍は英軍相手のマレー戦を除き,全ての水陸両用戦で敗北した。陸海空の軋轢はあるにしろ,小規模でも統合部隊がないと,他部門との協調性に欠けた日本の組織では太平洋戦争同様,上手くいかないのではと思う。海自は輸送艦を有しながら,原発震災時に北海道の陸自を青森に揚陸すら間に合わず,米海兵の揚陸艦が15日に苫小牧に接岸し運んだ。海自の輸送艦「しもきた」はどうしていたのかドック入りか。「おおすみ」は3月19日,仙台港へ補給物資を運んだ。「くにさき」は3月23日,石巻湾に展開した。海自の即応力に問題があるのか,防衛官僚の深謀があったのか。港湾に接岸して荷下ろして,誰が運ぶのか。ガダルカナルおよび比島戦での滞貨が酷かった。空爆で殆ど燃えた。水際から空襲を避けて分散させる当たり前の事が出来なかった。誰も責任は問われなかった。船が沖合いで沈められ,手ぶらの兵士が数多くいたのに不思議だ。命令書に記載のない事は必要と思われてもしないのが昭和の軍人だった。戦国期の水軍は兵員と糧秣輸送が主目的で,それを阻止するために海戦が起きたのだ。そういえば,文禄慶長の役でも補給に失敗したな。さらに,古く白村江はどうだろう。古代から水陸両用は苦手だったのか。
東條は士官学校生徒を率いて戦うと重臣に述べていた。士官候補生は自動貨車(トラック)を運転できるでもなく,何で戦場に向かうつもりであったのだろうか。匍匐前進は得意だったかもしれないが。東條は最後まで,吏僚ペンの人であった。天狗党を率いた水戸の隠居家老を想起してしまうが,士官候補生が従うだろうか。くだんの家老は水戸藩の急進派に推戴されたのだ。東條の檄に士官候補生が呼応した史実もない。単に重臣に対するブラフだったのか。
参考
日本側のポツダム宣言受諾までの動き
終戦時の日本海軍艦艇
九一式魚雷
United States of America Torpedoes of World War II
国内貨物輸送トンキロ
第2次世界大戦中の日本軍の砲兵連隊の編成
Eighth Air Force
本市における戦災の状況
鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)
川内原発30キロ圏避難、最長43時間 民間団体が試算
天皇の国体護持活動
岡村寧次大将資料
市内45か所に配給所
米陸軍が兵力縮小へ、歳出削減で第2次大戦参戦前の規模に
戦局の転換(ガダルカナル攻防戦、ソロモン海戦)
ガダルカナル島丸山道
大本営は米軍の九州上陸および関東上陸作戦期日をぴったり予測できていた。日本は一撃講和論をレイテ戦以降,唱えていた。大本営は本土決戦すら目論んでいた。昭和天皇独白録によれば,6月9日に大連会議を終えた梅津陸軍参謀総長が在支全勢力でも米8個師団にしか対抗できないと報告し,中国での米軍との決戦は不可となった。6月12日に,長谷川提督の軍需工場視察結果の報告を受けている。まだ沖縄戦の最中である。日産50本の魚雷が1本に落ち込んでいた。三菱長崎造船所の事だろうか。天皇独白によれば,「海軍の所要魚雷を是非とも作ろうとすれば,陸軍の工場までも全部海軍に回さねばならぬと云う」とある。既に連合艦隊は壊滅して,稼動する水上艦はわずかの駆逐艦,海防艦だけである。海防艦は低速で敵に接近できないから,当時,必要とされた魚雷は潜水艦用と航空魚雷である。45cm 魚雷2本を搭載する蛟龍は終戦まで 115 隻が完成した。終戦時,稼動航行可能な伊号潜水艦は20隻だった。人間魚雷回天を製造する呉工廠は1944年8月に 100 本の製造を求められ,日産3本生産可能とされたが,1944年9月の生産は零であった。海龍は魚雷製造が間に合わなく爆装となったようだ。7月15日における魚雷を搭載する稼動艦攻は148機,陸攻123機であった。魚雷は自動制御を要する複雑な兵器だ。三菱長崎造船所界隈,呉工廠周辺の軍需工場に限らず,3.11震災時に自動車エンジンのピストンリング製造工場被災により全国のエンジン組み立てが影響を受けたように,何か重要部品工場が被災したのだろうか。それとも輸送の遅滞だろうか。1940年に 27994 百万キロトンの鉄道輸送が,内海船舶輸送が船舶不足により,鉄道輸送を強化しようとしたにも関わらず, 1945年に 18650 百万キロトンに激減している。石炭輸送は最重要とされたが,機関車用の良質石炭すら不足していたようだ。鉄道省は 1944,1945 の両年の収入分に相当する被害を空襲により被っている。米艦載機の空爆が交通施設にまだ指向していないとされるのにだ。何が鉄道輸送に支障を来たしたのかわからないが,軍需生産のため必要な物流は崩壊していた。
九州沿岸師団装備の火力
政府は8月10日午前に留保付きポツダム宣言受諾をスウェーデンおよびスイス経由で電報で通知した。8月14日に天皇は陸海軍の要望により永野,杉山および畑の3元帥意見を聞き,彼らは戦争継続を主張している。九州上陸でも,沖縄上陸同様,周辺の種子島と甑島列島の占拠が計画されていた。主目的は鹿児島湾と飛行場建設のための宮崎平野だった。米軍の作戦期間はたった30日を予定していた。沖縄戦での4-8月の想定が短期の6月で終了したためであろうか。日本は8個師団準備していたけど,どう考えればいいのか。沖縄では孤立したたった2個師団で善戦した。参謀本部は西部軍管区に補給はできないと伝えているから,本州からの増援と補給はない。そのような状況下で参謀が九大に捕虜の生体実験を提案した。米軍も上陸作戦のなかで原爆使用を目論んでいた。上陸予定日は12月1日だから,レイテ戦と異なり天候は良く,常時航空近接支援が期待できると判断したのだろう。泥道もなく,ジープの通行は可能だ。制空および制海権を握っているから,舟艇機動もできる。沿岸で阻止されても,離れた地点に再上陸できる。ニューギニアでは西から東へ逃げても逃げても舟艇機動の米豪軍に先回りされた。後退防御を諦め,参謀本部はサイパンの水際防御に回帰した。訓練未了のためとされるが,どうだろうか。日本には大発という舟艇があって,上陸進攻の際,大いに役立っていたが,米軍の反攻とともに魚雷艇がその脅威になっていた。しかも魚雷艇が震洋とレ艇を制圧する様な気がする。魚雷艇の高速を活かして四国,熊本および長崎海岸に出没しただろう。伊江島から P-47 サンダーボルト戦闘機が朝鮮海峡まで出撃しているから,南九州への爆撃はさほど困難でもなかろう。318th Fighter Group がサイパンに上陸した時,護衛空母から73機カタパルト発進している。陸軍戦闘機にも太平洋戦線ではカタパルト用金具を取り付けていたのか。日本海軍の戦闘機隊は定数48機で,予備機を含めると1.5倍だった。そうすると日米で定数が合致する。伊江島の戦闘機隊は 144 機になる。当時の米第3/5艦隊は 1100 機を擁していた。日本海軍はおよそ300 機で真珠湾を奇襲したから,3倍以上の戦力だ。正規空母建艦を1945 年にキャンセルしているから,本土侵攻にはこれで十分と判断していた。九州上陸の際,北部の飛行場は機動部隊機と伊江島陸軍戦闘機が次から次,飛来して覆いかぶさられ,飛び立つのも困難だろう。目論んだ上陸船団への飽和特攻は不可能だろう。日本の航空機は洋上航法の必要のない内戦になる,この期におよんでも,陸海軍の航空部隊は海軍の反対により統合運用される事はなかった。国内飛行場の数から考えると,海軍航空隊は陸軍司令官の指揮下に入るべきだった。陸海軍が運用した多種類の戦闘機種を思うと,生産性は考慮されていなかった。ソ連もMIG,LaおよびYakの戦闘機を次から次,完成度の低い状態で生産した。日ソとも二流空軍の悲しさか。大国の合衆国だけは P-38,P-39,P-40,P-47,P-51,F4F,F6F,F4Uの8機種運用した。護衛空母群の大量の FM-2 と TBM が近接航空支援をする。対空火器のある軍艦でも命中させられるのだから,移動もせず,対空火器のない橋梁,鉄道施設の破壊は容易だろう。電力施設と水道施設は,占領を見据えて空爆が計画されていなかったようだ。米軍は機甲部隊もなしで,たった30日で川内-都農を確保するつもりだった。北部に小倉工廠があっても,弾薬の補給は困難だったのか。1944年度に日本は44千トンの爆薬を生産したのに対し,合衆国は 1143 千トンだった。1945年度の期首でも陸軍は94会戦分の弾薬を在庫していた。全国に薄く配備された爆弾は容易に決戦地に輸送できなかったのであろうか,それとも帳簿上のいつわりの数値か。関門トンネルで陸続きの九州(西部軍管区)に参謀本部は何故,補給しないとしたのだろうか。本土決戦を関東に集中するつもりで,九州は沖縄同様,時間つなぎだったのだろうか。東京防備に備蓄資材を回すつもりだったのだろうか。1945年5月の第3次動員において,師団砲兵隊を有するのは第321師団(東北軍管区)および322師団(東部軍管区)のみ。沖縄戦における米軍歩兵師団は76両の戦車を有していた。7個師団だから 532 両になる。天皇独白によれば,「鹿児島半島の部隊でさえ,対戦車砲がない有様で」とある。西部軍管区隷下の第40軍(77,146,303)の各師団の対戦車に使えそうな火力総数を計算してみよう。
303師団 3次動員 37mm速射砲X9
146師団 1次動員 各連隊(37mm速射砲X4)x4,山砲x8,機動47mm速射砲X12
77師団 師団速射砲隊,独立山砲兵第7連隊
書類上は,少なくとも45門あるけど,果たして,どれだけ12月までに実配備されたであろうか。鉄道から荷降ろしして,道路を自動貨車で牽引する。陸軍は終戦時,航空ガソリンの備蓄は3万kLで一箇月分しかなかった。本来なら,山頂まで,トラクタで牽引するのだが,内地にあったかどうか。となると,馬曳きだ。否,軍馬も枯渇していただろうから,農民から牛馬を徴発する。大砲1門につき,軍馬12頭要した。それもなければ,人力で牽引する。
太平洋戦争は海主陸従の戦いで,米軍の主攻はニミッツ提督が指揮し,従がマッカーサ将軍だった。本土決戦と称して,日本陸軍が米陸軍に決戦を挑むのは妄想に過ぎなかった。日本の主要都市は全て沿岸部にあり,艦載機の行動範囲だった。室蘭釜石とかは戦艦の艦砲射撃すら受けている。九州上陸では鹿児島市も薩英戦争と同じように,艦砲射撃を浴びたのだろうか。水際防御といっても,霧島山麓に追い込まれただろう。霧島には陣地が構築されていなかったから,レイテ戦同様,山陰に潜みながらの抵抗というか退却戦になる。長く伸びた行列は米艦載機の目標になる。とにかく,40軍には火砲がないから米軍の進撃を阻止しようがない。16方面軍(西部軍管区)の補給物資が尽きたら,抵抗も終わりだ。陸軍が本土遊激(ゲリラ)戦を意識したのは3月であった。中野学校を長野に移転して,ゲリラ戦を研究し始めた。少なくとも,マリアナ沖海戦後,研究しなければならなかった。日本陸軍には不思議にもゲリラ戦思想がなかった。防衛戦はどこでもゲリラ戦が基本だ。アメリカの独立戦争は基本的に英正規軍(レッドコート)を敵とした民兵を中心とするゲリラ戦だった。民兵はライフル銃で英軍士官を狙撃して抵抗した。焦土作戦になった。残念ながら,日本陸軍には狙撃ができても山岳を踏行できる歩兵はいなかった。ライフルさえ充足していなかった。幕末時には,日本は世界最大の銃保有国になっていたのに不思議な事だ。戦国末期には槍兵中心から西欧以上に銃兵の割合が多かった。陸軍は仏独に倣い士官に銃を装備しなかった。
戦時緊急措置法
6月には「戦時緊急措置法」が施行され,事実上,日本は軍政下にあった。日本はシナとの戦いで,航空優勢および火力優勢のもと戦った。今度は日本が,シナと同じ境遇に置かれる。第40軍は水際防御を命じられ,1/3が上陸前の艦砲で失われただろう。日本軍事史上,最も濃密な火線を構築したサイパンの水際防御陣地は3日で壊滅した。後は,比島戦のように逃げて抵抗するしかない。一方,米軍は冬の乾いた道路を,トラック補給で前進する。日本には進撃を阻止する火砲がない。軍司令官はミカドの官僚として,県民保護を無視するのか。それとも,配慮するのか。やはり,沖縄の牛島軍司令官と同じになるのではなかろうか。山道を徒歩で北部に脱出しようとする県民は南下する56軍と霧島山地で錯綜する事になる。
日本海軍は7月30日,第5航空艦隊司令部を鹿屋から大分への移動を決定し,鹿屋基地の破壊命令をも出している。地元民の労力なしには基地の拡充は考えられなかった。地元民には見棄てられるという感情があったとされる。当時,宮崎鹿児島県の人口はどれほどであったろうか。宇垣長官は8月3日,大分に将旗を掲げた。九州上陸があれば,西南の役以来の内戦であった。鹿児島市は「1945年3月18日から8月6日まで前後8回にわたる空襲を受け、文字どおり壊滅的な打撃を受け、市街地の約93%を焼失した」とある。東京で50%の消失だから,上陸を想定したものだろうか。薩英戦争の時も,艦砲で町が燃えた。
米軍の機雷封鎖により,朝鮮満州から食糧の海上輸送が途絶え,7月11日から,大都市は8月11日から食糧配給の1割減配が実施された。鹿児島では有明方面まで買出しに出かけたそうだ。第40軍隷下の師団ではどうだったのだろうか。師団主計科が備蓄資材を供出して食糧は確保できただろうけど,新設だとガソリン等の備蓄資材そのものがない。出入りの業者が闇市場で食糧と交換したのだろう。陸軍は軍隊だけでなく市民を取り締まる憲兵を保有してから,業者が内務警察に摘発される事もない。その点,海軍のは対応は冷たく,出入りの業者が闇物資を調達して,警察に拘引されても保護しなかった。
当時の知事,柘植は城山に防空壕を設置とある。検索してみたが,どんな県民の避難および疎開計画を立案したのかわからなかった。川内には原発がある。鹿児島県はどんな原発事故避難計画を立てているか知らないが,「30キロ圏に車両登録されているバス、乗用車の各5割を使い、圏内の住民が一斉に避難する想定。対象人口は、原子力規制委員会の資料を基に約23万人で計算。車両台数や道路事情を考慮した平均的な速度で移動するとした。国道、県道などの主要道と高速道を使う場合は、避難完了までに21時間半」とある。滋賀県湖西の市街地はバイパスがほとんどなく, 161 号線と琵琶湖西縦貫道路が1本だけというような状況で,自動車の半数を使用したら,大渋滞が起きるのは確実だ。鹿児島の自動車保有数が少ないのか,それともバイパス道路整備が良いのだろうか。それとも鹿児島には米軍九州上陸に備えた機動道路が建設されていて,原発避難にも役立っているのだろうか。
終戦末期の人事異動
終戦1箇月前の頃,天皇独白によれば,米軍降下兵による大本営占拠を心配している。首都は近衛兵などで警備していたから,常識的には占拠は不可能だ。降伏に抵抗している陸軍が実は,密かに米軍と通じているのではないかと宮中は疑っていたのかもしれない。実際,8月14日に陸軍省荒尾軍事課長によるクーデタ事件が起きている。合衆国がパナマ侵攻した際,パナマ首都はそれなりに抵抗している。天皇は軍服をお召しになっているが,近衛兵を指揮する権力がない。宮中が直接,警備力を行使したのは,上皇による北面武士の時代まで遡る。天皇の実務は関白摂政が行っていた。鎌倉時代になると,宮中警護は幕府による関東武士への大番役となった。この賦役は関東武士にとり,かなりの負担であった。戦争末期のクーデタは陸軍大臣,参謀総長梅津,東部軍管区司令官田中の同意が得られなく失敗した。天皇独白に「東條人事」と2回出てくる。陸軍大臣および次官のとき,人事権を行使した事を示すのだろう。人脈中心の人事を指すらしい。一部の吏僚にとり情実人事と感じたのだろうか。しかし,軍人といえでも役人であるから,役職に就かないと仕事ができないのだから仕方がない。小磯内閣成立のときの陸軍大臣人事に関して,梅津が山下と阿南を推薦。東條は山下の果断により東條人事が覆るの恐れて,自身が大臣に留任すると言い出した。マリアナ沖海戦の結果,サイパンが失陥し,戦局の帰趨が見えても危機意識がなく,東條は陸軍人事に執着を見せている。上下関係に気配りのできる能吏だったかもしれないが,議論して国家を先導するような指導者ではなかったようだ。
参謀総長梅津 1944年7月18日 駐スイス公使館付駐在武官
東部軍管区司令官田中静壱 3月9日 米国大使館附陸軍武官
陸軍軍務局長吉積 正雄 3月27日 欧州出張
第140師団長物部長鉾 4月1日 輜重兵監
陸軍大臣阿南惟幾 4月7日 陸軍次官
近衛第1師団長森 赳 4月7日
陸軍次官若松 只一 7月18日 ドイツ駐在
官僚が始めた対米戦争は,やはり官僚が戦争を終結させた。東條は阿南がまさか終戦降伏に同意するとは思わなかったのだろう。在京陸軍高官の就任日,在外経験を示す。在京陸軍首脳(阿南陸相、梅津美治郎参謀総長、土肥原賢二教育総監、杉山元元帥第一総軍司令官、畑俊六元帥第二総軍司令官、河辺正三陸軍大将航空総監)は8月14日,陸軍省舎に参集し「終戦の承詔必謹の誓文」に署名誓約した。陸軍省課長以上は同様に,署名捺印をした。官僚が天皇の命に服するのは当然と思っていたが,誓約書を提出するとは意外であった。
まるで,江戸期お家騒動時の領主に対する誓文のようだ。ポツダム受諾反対派が少なからず,陸軍省にいたのだろう。戦国期には,大名は家臣の離反に悩まされ,やたら誓紙を提出させた。主君が間違っているのなら,反逆は不忠にならないとする思想が,中国の儒学におこり,これが水戸の尊王攘夷になっていった。その影響が1945年にもあった。また主君の命令が不当であっても服するという楠正成の湊川精神もあった。草鞋を履いた明治陸軍の農民兵を指揮し,領民と接していた旧士族の国軍と,農民から遊離した陸大出身者に占められた皇軍の違いがあった。彼らは多かれ少なかれ平泉神学に影響を受けていた。皇軍とは士卒と天皇を直結するものである。
満州事変まで皇軍の風紀が保たれていたのに,1938 年には日本兵に風紀紊乱がみられるようになった。1942年には戦時強姦罪が制定されるまでになった。義和団事件では日本兵の風紀が賞賛され,西欧から中国における警察のように期待もされていた。PKF みたいなものだ。九州から一昼夜航行すれば上海だ。だが太平洋戦争の頃には,皇軍に精兵はいなかった。1945 年に動員された兵士の資質は甚だ劣り,窃盗強姦が多く発生した。食糧給与がままならない師団では兵営を抜け出しての盗みだった。中国に派兵され除隊後の再徴兵組みも多かったせいもあるのかもしれない。
捕虜に対する扱いも酷くなった。一次大戦ではドイツ兵捕虜に対して食糧給与は国民より良質だった。二次大戦では捕虜虐待で大森捕虜収容所の捕虜は写真をみると骨と皮だけになった。戦後,共産党幹部が GHQ 指令により釈放された。国民は新聞に掲載された幹部の写真を見て驚いた。飢えていなかった。司法省の道徳は大したものだったけど,大森捕虜収容所の場合,書類上の食糧給与が実際とは異なっていたのか,それとも収容所内で横領があったのか定かでない。戦犯で所長より上級が裁かれていないところからすると,ピンはねがあったのだろう。外戦部隊だけでなく,陸海軍の内務も劣化していたとみるべきか。師団付きの軍医は兵士の健康管理に責任があり,律儀に体重を測定している。補給が途絶え,沖縄戦後,すみやかに終戦になれば,どれだけの自活中の兵士が餓死せずに済んだ事か。
陸軍省官僚の失職
戦犯の対象になりそうもない陸軍の中堅官僚が,何故一撃講和に拘ったか。やはり,国体維持か。ポツダム宣言にある武装解除とは,彼らの失職を意味する。失業だ。将官クラスだと恩給生活があり,大尉くらいだと若く再就職の道もあるだろうが,佐官クラスは家族の扶養を考えたら絶望的だろう。鹿児島のかつての西南の役も禄を奪われた不平士族が中心だった。禄高は少なくても武士の誇りであった。ポツダム宣言を受けて,国際感覚が陸軍より少しあった海軍上層部は米ソ対立を予期し10万トン程度の再軍備は,そのうち必要になるだろうと考えた。残念ながら,陸軍省中堅に信望のあった陸軍大臣阿南は,国際感覚に疎いせいか中堅を統率できなかった。さらに元大臣の東條は士官学校生徒を率いるとまで重臣に広言していた。
陸軍省の中堅官僚がポツダム受諾にゴネたのは,幕末の武士と異なり,失職すると,もはや帰農ができない王朝に寄生していた朝鮮武官のようになっていたからだ。彼らの主張する国体とは天皇を頂点とする武官体制であった。陸大出身者が民間を「地方」と蔑む感性は,かつて京都の朝廷貴族が「地下」と呼んだのと同じ感覚だろう。安易に開戦に同意した海軍の罪も重いが,終戦の最後まで陸軍は日本を振り回した。軍人の生活がかかっていた。陸軍を解散させるのに,米軍という巨大軍事組織を必要とした。あの強大なソ連軍は,ソ連崩壊時に抵抗なしにリストラできたのであろうか。日ソどちらも官僚国家でありながら,不思議だ。ソ連を統治するのは党,軍および組合と教わったのだが。ソ連の軍人は日本と異なり,それなりに実務ができたのかもしれない。一方,ソ連の下士官兵の能力は低く,戦後ソ連の捕囚となった日本兵が掛け算もできない奴らに負けたのかと慨嘆している。ニミッツ提督は,軍縮時,海軍を諦め,ディーゼル関係の会社に就職を考えていたし,ミッドウェーおよびマリアナ沖海戦の現場指揮官のスプルーアンスは電気会社だった。両者はそれなりに,当時の先進技術の実用化を手がけ,実務能力があったのだろう。剣を鎌鍬に代えて帰農する時代は終わっていた。
米陸軍の風紀と軍縮
比島戦で見せた日本兵捕虜のため,どしゃ降りの雨の中,米歩兵がテントを設営したりしたのが,沖縄戦になると風紀が乱れ始め,本土進駐にやってきた新設師団は傲慢で資質が良くなかった。といってもソ連兵および中国兵に比べるとはるかに軍規は良かったが,大戦後,繰り返される戦争で米軍は疲弊している。イラク捕虜収容所の虐待をみても,看守に応募する兵士の資質はかなり低い。ラムズフェルドは腐ったりんごは取り除けとは言ったが,米陸軍の兵科兵種は細かくみると100種にも達する。
合衆国は第二次世界大戦前の地上兵力になりそうだ。米海兵もグアムまでの撤退がはっきりしている。合衆国政府は海兵の辺野古移転とか言っているけど,もう辺野古は政治カードなのだ。米軍の撤退は早い。東條が英霊に申し訳ないと中国進駐に拘った旧陸軍とは違う。出て行ってくれと,宣言したら兵力を引き揚げるだろうが,東シナ海の制海制空は中国が握る。米中間で日本の取り扱いについては,暗黙の了解事項があると考えたらいい。中国は最近,ポツダム宣言を強調しているのもその表れだろうか。
シェール石油革命もあり,合衆国は内向きになる。中間選挙でも TPP は争点になりそうもない。EU対策のための TPP はオプションであって重要性は低い。日本が産する商品は大体中韓で賄えるし,日本の農産物市場も中国に比べるとはるかに小さい。過度に TPP を恐れる必要もなく,過大な期待をよせるのも的外れだ。ただ,TPP による日本の安全を保障する接着剤となる可能性がなくなると,日本の対中リスクは相対的に上昇する。ロシアは嫌な相手だが,各面で競合する中韓よりはましか。ロシアのエネルギおよび日本の内国産物の貿易拡大はどうだろうか。ギリシャはEUの対ロシア制裁でイチゴの90%,桃の60%が影響を被ったそうだ。ロシアは人口も多く,今ではかなりの購買力がありそうだ。
合衆国太平洋艦隊の日本侵攻戦略は,幕末期のペリーと殆ど同じ進路となった。台湾をスルーしたし,沖縄と小笠原を経由して浦賀に来航した。8月28日,米軍は九州に上陸する事なく,厚木には空挺師団が到着,横須賀には海兵が上陸した。長い長い米軍進駐の歴史が始まった。日本陸海軍は千葉県鴨川東岸,多摩川河口,府中,八王子,大月,伊豆半島南端を結ぶラインの内側から退却した。9月3日,鹿屋に米軍が進駐し,鹿児島市庁にも軍政官が着任した。現在,鹿児島には陸自の施設大隊(工兵)がいるだけで,海自の哨戒が中心だ。
宮城を警護する近衛兵は衛士(警察官と兵士)を経て,警察官となり,文字通り陸海軍は解体された。朝鮮動乱とともに日本の軍備が再開されたが,掃海艇を除いて出動する事がなかった。憲法の解釈を巡り,政争が起きた。戦前と戦後の違いを実態からみると,民主主義は衆議院の優越はないにしても戦前から普通選挙が行われていた。天皇は今も昔も実権はない。軍事警察,教育,司法の中央集権は今も一緒だ。鉄道省,逓信省が民営化された位だろうか。軍事警察機構の違いは海保の存在だろう。戦前は水路確定などは海軍の所管だった。そして,自衛隊には軍法がない事だ。政治は変わった。政財官のトライアングルが形成され,国会議員は族議員となり,今や国防族も発生した。防衛次官が汚職で実刑判決に至るまでになった。私の所属会社はこれまで,顧問どまりだった天下りが執行役員になった。規制緩和が紙面をにぎわすが,新しい分野や強化を唄う施策には官の裁量が大きい。知財など施行規則を読んでも,具体的案件になると,どうなるのかさっぱりわからない。基準が実に曖昧なのだ。補助優遇策の拡大もある。これまで政府プロジェクトが巨大企業に限られていたのが普通の大企業に開放されてきた事も大きい。構造汚職とも称された。終戦末期,軍事費は GNP の 90% 以上になった。産業規制は戦前よりも多くなった。竹中の主張する産業育成はまやかしだ。経済学者,官僚が成長する新分野がわかるわけがない。もしそうであるなら,官僚国家のソ連が停滞したのはおかしい。戦前と異なり,中央集権ながら地方自治が導入された事だ。一般に地方自治が強い国家は経済成長が合衆国,ドイツ,スイスおよびスウェーデンのように零成長にならない。日本と似通っているのは中央集権および混合経済のフランスだ。フランスと異なるのは日本の集団主義に対して,フランスは個人主義だ。フランスは日本同様,実に規制の多い国だ。それなのに発展していたのはEUに負うところが大きい。フランスの原発は電力を輸出している。だからイタリアおよびスイスは安心して脱原発に踏み切れた。今ではフランスは欧州の病人とも称される。国家規制による停滞のためだ。TPP は日本と合衆国が妥協しない限り期待できないから,フランス流の改革もできない。徹底した地方分権と自由主義経済のスイスは余りにも,日本と異なり参考とはならない。
広島の土石流災害をみるにつけ,日本の地方自治は貧弱だと思う。県および市の防災土木課で,重機の運転ができる役人がどれだけいるだろうか。昔の日本師団の小銃(ライフル)装備率は極端に低かった。それは少尉以上は銃を装備しないせいもある。少尉は徴兵の兵卒ではなく,官位を有する武官だった。だから,海軍でも海軍兵学校出身の尉官は戦闘機以外の兵器を操作しなかった。兵器を操作しない士官が操作を講義するという奇妙な状態だった。この悪弊は現在の公立学校でも残り,英語を話せない国家資格の教師が今でも英語を教える実務軽視の風潮が絶えない。
陸自の災害出動は良い訓練になる。特に工兵は教官の教える教本と異なり,現場に即した実地訓練となる。昔,成績優秀の陸士出身者は全て歩兵科を希望した。米陸軍士官学校の最優秀は工兵となる。ローマ帝国来の伝統だ。築城道路建設は防衛の基本なのだ。しかも専門知識技量を要する。戦国時代の合戦は陣地構築が勝敗を分けた。有名な武将は普請でも優れていた。失敗を重ね,地勢を判断し優れた陣地を構築出来た者が最終勝者となった。その最後が家康だった。元和偃武以降,その戦争技術は忘れ去られ天草の乱で幕府軍は苦しむ事になった。幕末には築城及び陣地構築技術が全く退化して,西欧列強の軍人に嘲笑されるまでになってしまった。米陸軍工兵は日本の文科省建設局,国土省建設局などの各省建設局を合わせ,さらにゼネコンおよび下請け事業者を足したものだ。設計から施行まで行う。TVでミシシッピ川氾濫の排水について,軍服の陸軍中尉がインタビューに答えていたのが印象的だった。ガダルカナルの攻防は補給が全てのように語られる。確かにそうなのだが,白兵突撃により中国では夜襲突破できた陣地が抜けなかった。確かに砲兵は夜間,射撃できないが,米海兵は照明弾を使用し,防御戦に達する前に,日本兵を迫撃砲で損耗させた。それを支えたのは迅速な米海兵陣地構築と火力の差がある。米海兵は日本陸軍の戦法を研究していたのである。17軍は通常は1箇月半の糧食携行を2週間分で各部隊を送り出した。現地では食糧がないから,砲兵観測所となる高地を奪取する暇がなく,夜襲奇襲の繰り返しとなった。参謀本部派遣の辻参謀に至っては,「駆逐艦による兵力及び弾薬、糧秣の輸送は敵機の揚陸妨害に依り計画の概ね2分の1程度なると。揚陸点より第一線までの補給は夜間、人力のみに依り辛うじて3分の1前後を前送しうる状態に在り」と打電しながら,補給に支障がないとまで報告している。素直に読めば,1/6 に減少する。海の補給路より陸の補給路の方が酷かった。その道は「丸山道」と呼ばれた。第2師団が攻撃発起点まで展開するのに8日要した行程だ。不思議なのは,飛行場まで達したとしても,火力がないから保持できないし,後続部隊がないから連絡線が断たれてしまう。
日本海軍は米海軍との艦隊決戦を志向し,日本陸軍は重慶政権の屈服を目指した大東亜戦争であったが,艦隊決戦は生起せず,水陸両用戦がマレー戦から最後の沖縄戦まで続いた。日本軍は英軍相手のマレー戦を除き,全ての水陸両用戦で敗北した。陸海空の軋轢はあるにしろ,小規模でも統合部隊がないと,他部門との協調性に欠けた日本の組織では太平洋戦争同様,上手くいかないのではと思う。海自は輸送艦を有しながら,原発震災時に北海道の陸自を青森に揚陸すら間に合わず,米海兵の揚陸艦が15日に苫小牧に接岸し運んだ。海自の輸送艦「しもきた」はどうしていたのかドック入りか。「おおすみ」は3月19日,仙台港へ補給物資を運んだ。「くにさき」は3月23日,石巻湾に展開した。海自の即応力に問題があるのか,防衛官僚の深謀があったのか。港湾に接岸して荷下ろして,誰が運ぶのか。ガダルカナルおよび比島戦での滞貨が酷かった。空爆で殆ど燃えた。水際から空襲を避けて分散させる当たり前の事が出来なかった。誰も責任は問われなかった。船が沖合いで沈められ,手ぶらの兵士が数多くいたのに不思議だ。命令書に記載のない事は必要と思われてもしないのが昭和の軍人だった。戦国期の水軍は兵員と糧秣輸送が主目的で,それを阻止するために海戦が起きたのだ。そういえば,文禄慶長の役でも補給に失敗したな。さらに,古く白村江はどうだろう。古代から水陸両用は苦手だったのか。
東條は士官学校生徒を率いて戦うと重臣に述べていた。士官候補生は自動貨車(トラック)を運転できるでもなく,何で戦場に向かうつもりであったのだろうか。匍匐前進は得意だったかもしれないが。東條は最後まで,吏僚ペンの人であった。天狗党を率いた水戸の隠居家老を想起してしまうが,士官候補生が従うだろうか。くだんの家老は水戸藩の急進派に推戴されたのだ。東條の檄に士官候補生が呼応した史実もない。単に重臣に対するブラフだったのか。
参考
日本側のポツダム宣言受諾までの動き
終戦時の日本海軍艦艇
九一式魚雷
United States of America Torpedoes of World War II
国内貨物輸送トンキロ
第2次世界大戦中の日本軍の砲兵連隊の編成
Eighth Air Force
本市における戦災の状況
鹿児島市における戦災の状況(鹿児島県)
川内原発30キロ圏避難、最長43時間 民間団体が試算
天皇の国体護持活動
岡村寧次大将資料
市内45か所に配給所
米陸軍が兵力縮小へ、歳出削減で第2次大戦参戦前の規模に
戦局の転換(ガダルカナル攻防戦、ソロモン海戦)
ガダルカナル島丸山道
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