2014/09/11

日本電探22号 vs 米海軍SJレーダ

日本商船被害比率の推移
太平洋戦争中の月別日本商船の損失状況のグラフを見ると,潜水艦による損害は1944年11月の32万トンから,1945年3月の5万トンに激減している。この原因は航路帯放棄により,米潜水艦の獲物が減ったせいとされる。大井の「海上護衛戦」によれば,11月17日の対潜水艦戦 ASW について,「この頃,やっと電探を装備しはじめていたので,それをふりまわして暗夜に敵潜を探し求めたが,使用技術が未熟で見つけることができなかった。電探については敵潜の方に数年数ヶ月の長がある」としている。電探の性能については,言及していないが,暗に電測員もしくはその運用が未熟と読める。はたしてどうだろうか。

日本海軍の海上護衛戦を4期に分けた全船団中の船舶中における潜水艦による被害比率の推移をみると,

Phase1 41年12月-42年10月 N/A
Phase2 42年10月-43年11月 0.5%
Phase3 43年11月-44年10月 5.7%
Phase4 44年10月-45年8月 13.1%

と,日本側 ASW に関する限り,悪化の一途を辿った。魚雷は距離 1km 程まで近接しないと当時は当たらない兵器だった。この距離以遠で敵潜を潜航に追い込めば,水中速力は最大 8kt と船団速度と同じ程度で,数時間も経つとバッテリ容量が低下してみるみるうちに最大速度が低下するから,潜航しての追跡は不可能だった。潜水艦は待ち伏せて近づいて来る船を仕留めるしかなかった。日本海軍は22号電探を実用化し,キスカ撤退,レイテ海戦での引揚げに有効だったとされる。この電探は海防艦にも配備された。Wikipedia をみると,立派な性能だ。この性能で何故,米潜水艦の制圧ができなかったのだろう。米潜水艦は水上捜索用に SJ Radar を装備していた。両者の検知性能に遜色はない。波長も一緒だ。巷間,言われる信頼性の問題だろうか。中川の「海軍技術研究所」によれば,鉱石検波の信頼性が劣っていたとされる。

電波の反射強度は測定対象の理論的断面積に比例する。米潜水艦と海防艦の断面積はどれほどであろうか。同じ距離だけ離れて,対象が駆逐艦と戦艦ではエコー強度が異なる筈だ。断面積の目安として乾舷高を考える。全長の中心部における乾舷高さを求めると海防艦は 2.1m と「世界の艦船」に掲載の図面から読み取った。手持ちの資料だと,ガトー級潜水艦の図は全て,見開きでスケールが掲載されていない。航空機艦船の雑誌以外でスケールが記入された図を見た事がない。この種の書籍は今も週刊少年雑誌の図解と大した差がない。どれだけの大きさか算出できないのだ。木俣の「潜水艦入門」に掲載されていたソ連のK型の図面から乾舷を求めると 1.36m となった。当時の米潜水艦ガトー級の全長と掛け合わせ,簡易的断面積とすると両者は大した違いがない。実際には,海面部分はクラッター(反射ノイズ)が大きいから,潜水艦の司令塔より海防艦の艦橋の方が大きく高いので海防艦の方がレーダ反射が強いだろう。

検索しても,この種のレーダネタは出てこない。だが,両者の仕様が大きく異なるのは表示方法,アンテナ外観とパルス幅だ。SJ Radar のパルス幅は22号電探の1/10の 1us だ。パルスを打って,その反射エコーを測定するとその遅延が距離,そして強度が対象物の大きさに関連する。パルス幅の短い鋭いパルスを打てば,それだけ鮮明なエコーが得られる。この種の実験をした事があるが,受信感度を上げるより時間幅の小さい送信パルスを打てば対象物の差異を良く捉えられた。SJは40 ヤードの距離分解能だ。Wikipedia 記載の22号電探の検知性能は名人芸によるチャンピオンデータの可能性が高い。しかも表示はAスコープだ。もし敵を発見したとしても,敵は移動するし,自艦も回頭するからラッパ管の追従(トラッキング)だけでも大変だろう。そのうち見失う。そうすると走査をやり直さなければならない。一方,SJは PPI 表示だから一目瞭然,そして目標が自艦に対して絶えずトラッキングされて表示される。キスカ撤退で22号電探が性能を発揮できたのは測定対象が地形で動かないし,レイテの引揚げ戦の場合は,敵艦は追跡してくるので変針せず,一直線で向かってくるからベアリングの必要はないからだろう。Aスコープのもやっとした波形から正確な方位と距離を測定するのは普通の電測員では不可能だろう。しかも波形にはノイズが含まれる。普段から潜水艦を対象にAスコープを使用した訓練を行わないと到底,実戦では無理だろう。

新兵器開発に対する姿勢
SJ レーダは合衆国政府が AT&T のベル研に開発を 1938 年に依頼したものだ。AT&T のマイクロ波通信研究が役に立った。ベル研は世界を変えたトランジスタ発明で有名だ。ドイツ海軍はドイツ空軍の FuMG-200 レーダを取り付け水上艦を対象に探知距離は 7km だった。発振周波数 556MHz (UHF) では英海軍の護衛艦に装備されたセンチ波には全く歯がたたなかっただろう。当初,ドイツはレーダ開発では英国より先行していたが,その後遅れてしまった。まあ,合衆国が目に見えない兵器として, MIT の Radiation Laboratory 関連に15億ドルも注ぎ込む発想はドイツにもなかっただろう。その意味で,独力で実用にこぎつけた日本海軍の22号電探であったが,米海軍のSJ相手ではどうしようもなかったか。ちなみに原爆のマンハッタン計画は19億ドルであった。1941年における合衆国の軍需資材品生産額は47億6千万ドルとされている。戦争を始める前の大量輸送船建造といい,日本官僚の衆議および調整では,なかなか出てこない意志決定だろう。何しろ,拡大したシナ事変での弾薬不足による経費増大に陸軍は悩まされていたのだから。合衆国はこの種の決定は委員会で行い,議会が予算を承認する。

軍令部が,米潜水艦による損害を月間3万トンに抑えるには,1943 年9月25日,360 隻の護衛艦艇が必要との見解は,海防艦が増勢した爾後の被害比率の推移をみると,軍令部の要望通りの海防艦が建造されても,損害が劇的に減少するとは思われない。帝国海軍軍人がレーダで負けたと主張するのも一理ある。だが,損害比率とか会敵比率の推移をみているだけでも,異常が気づかない日本海軍護衛司令部をどう考えたらいいのだろうか。ドイツ海軍 BdU は潜水艦を引揚げてまでして,敵のレーダ対策と暗号更新頻度を高めたが,日本海軍は商船暗号解読を疑った形跡がない。護衛司令部の情報処理および指揮に問題があったのだろう。といって,山本提督が暗号解読で暗殺され,さらにドイツを通じて暗号が破られているとの示唆を受けても暗号更新をしなかった海軍上層部だから仕方がないのだ。つまるところ,海軍は役所だから,物事を変えるのは,関係部署への根回しと膨大な手続きを要するので面倒極まりないのだろうか。

電力災害との対比
川内原発稼動審査をした原子力規制委員会の態度をみると,バックフィットの評価基準がよくわからない。素人がどうみてもすぐできそうな事もせず,古い基準でも耐えた地震対策を強化したりしている。最も不十分だったのは,緊急のダメコン対応だったのが,事故の教訓が活かされたのだろうか。太平洋戦争では戦訓であった。原発の電源がダウンして,持ち寄ったケーブルコネクタの規格が異なり接続できなかった信じられない事象も起きた。訓練していない事は迅速にできないし,事故が起きたらどれだけ電力社員をすみやかに動員できるか。石油化学プラントでは総員の消化訓練をする。それは火災事故が最も危険だからだ。発電所で全員での停電訓練をしていたのであろうか。軍艦物のアメリカ映画をみると,応急班は肩に電源ケーブルを掛けている。消火にしろ排水にしろ,閉所なのだから暗くて電力がないと,何も始まらない。逆に,補機が止まり電力が途絶えるとお手上げだ。原発では,電源をいかに分散し供給するかが大事だとわかった。船舶と同じような対策を考えればいい。社員の動員と訓練が大切だ。日常の業務を外部委託するのではなく,自前の人手で完結しないと,軍艦の艦橋にいる要員だけではダメコンが機能しないのと同じになる。

電力会社の社長と原子力規制委員長が非常用ケーブルを接続して,ああこのケーブルが何本,必要になるのだろうとか,原発の稼働状況のデータをみればかなりの事がわかる筈だ。数万におよび機器があれば,絶えず何がしかの装置が故障している。それらを保守点検しながら,船と同じように原発は動く。フクシマの危機の際,原子力委員会の委員長が図面を探したが,委員会では見つからなかった。申請側は求められなかったので図面を添付しなかったのであろう。審査する側も,図面なしで何を審査したのだろうか。家の建築申請に図面がないのと同じだろう。今回の審査も非常に長い時間と労力をかけている。原子力規制委員会がかつての保安院のようになり,マンダリン(清朝官僚)化していなければいいが。いっその事,専門家がおり,実務に精通している国外のコンサルタント会社に審査を委託したらどうだろうか。想定外の事故が起きるリスクは無視できないけど,それでも原発の再稼動は経済のため必要だ。再稼動を審査した職員は以前の保安院と一緒だろう。それではダメだと思う。せめて,原子力規制委員会のスタッフに東電の事故を経験した専門家を配したらどうだろう。

参謀指揮官の吏僚化
海上護衛隊に対潜訓練を実施した事のある参謀がどれだけいたのだろうか。日本の軍隊は不思議なところで,航空機を操縦した事がない経歴の人が航空隊司令官とか空母の艦長になった。ひょっとすると,海上護衛司令部の参謀連には潜水艦畑,航空機畑出身は皆無だったかもしれない。かつて,朝鮮侵攻の際,九州諸勢力が朝鮮軍を圧倒したのは,侍大将が銃に精通し,銃士だったからだ。一方,朝鮮武官は漢文に精通し筆と紙が昇進の決め手だった。両者の立てる作戦の違いは,その後の日米海軍の差異と似通ってはいないか。米太平洋艦隊の指揮官ニミッツ,ハルゼーおよびスプルーアンスはそれぞれ潜水艦,空母,電気儀装の経歴を持つのに,日本海軍の指揮官では皆無であった。海上護衛隊と航空艦隊の指揮官が潜水艦乗組員と航空機搭乗員の経験者だったら,無謀な作戦とか愚かな戦術を採用しなかっただろうか。そうでもない気がする。やはり,日本海軍にはある種の空気というか論理が支配していて,変革ができず想定外の事態に対応できなかったのだろう。戦力も術力も劣勢と認識した結論が,特攻兵器だった。米海軍の変貌に対応できなかった日本海軍は余りにも官僚化していた。米海軍研究所 NRL が 1930 年に高度 8000ft,距離10マイルの航空機検知実験をしていた。日本海軍技研が 1940 年鶴見沖の空母赤城を測定対象に地上からマイクロ波を照射し,海上の小艇の受信機でエコーを検出する実験を行った。測定対象および発振周波数の違いはあるにせよ,日本海軍の実験が10年も遅れているのは解せない。進取の気風が失せていたのではなかろうか。それとも単に金太郎飴みたいな軍人だけだったなのかもしれない。

大災害と社会変革
これは,今も伝統と安定を重んずる気風として,役所,会社,学校あるいは家庭まで社会の隅々まで当たり前になっているのだろう。あってはならない,想定外,前代未聞,空気を読まない等の異分子を排除する同質性が余りにも強固になってくると,硬直した組織は何故か,自壊してしまう。明治維新も革命というよりは,幕藩体制はペリーの黒船で壊れ,次は米海軍に封鎖されて陸海軍が自壊した。この次は何で何がこわれるのか。幕末の安政大地震後と大正の関東大震災後,20年くらいで政治の仕組みが変更になっている。原発を止めてしまった 3.11 も日本の政治を変えるような気がする。脱原発は満州事変と同じくらい日本をジリ貧に追い込んでいくだろう。わかっていても破局まで変えられないのも日本の運命だ。

参考
USS PAMPANITO - CONNING TOWER
SJ Surface Search Radar
米国艦船搭載レーダーの急速な進歩
関連記事

コメント

非公開コメント