征服王ウィリアムの頃の馬挽数と海洋交易
ウィリアムの知略
ノルマンディー公のイングランド征服事跡を綴った有名なバイユーのタペストリがある。タペストリの縁には歳時記および想像上の動物とかが描かれている。当時の犂耕はなんと通説によれば,8頭挽きだったそうだ。日本流だと とんでもない馬の飼養に手間をかけてしまうが,放牧に近かったのだろうか。当然,去勢馬だろうと思う。ハロー Harrow も描かれていて,当時の最新農機だったそうだ。日本では紫式部が活躍していた頃だ。後にウィリアムとイングランド王位を争うハロルドは 1064 年の春にノルマンディに渡海したようだ。
私が子供の頃,ハリウッド映画の史上最大の作戦が上映され話題になった。米英軍を主力とした連合軍のノルマンディ上陸作戦の事だ。所詮,米海軍主導の太平洋水陸両用戦は脚光の浴びる欧州戦に比べると影が薄い。イングランドには先史時代の有名な巨石遺跡がある。もうこの頃には豚を飼養していたから驚きだ。その後,ケルト系が主体だったが,アングル,サクソン族さらにデーン人が侵攻して7王国が形成された。馬もイングランドに来たのだろうと思う。Game of Thrones の元ネタだ。イングランドに戻ったハロルドがエドワード王の死去後,即位するとウィリアムは違約を止めないなら決闘で決着をつけようと申し込んだ。ナチス突撃隊の隊長レームは学生時代に決闘で受けた大きな刀傷が顔にあった。若きフランスの数学者ガロアは決闘で死んだ。日本が決闘を禁止するのは明治である。西欧と日本の士分身分では私闘の伝統が長く続いていた。
遠征に用意された隻数に諸説あるようだが,オクスフォード大学ボードリアン図書館の史料によれば 776 隻だった。封臣が準備した。モータン伯とバイユー司教のオドが最大の 120 および 100 隻である。700 隻を新造したとすると 2630 ha の森林が消失してしまうそうだ。既存の船でまかなったようだ。バイキングが使用した軍用のロングシップだと馬を積載できないそうだ。
ウィリアムはデイヴで1箇月待機した。その理由はハロルドのイングランド民兵の従軍義務期間が 30日だからだそうだ。ハロルドの船団は見通しのきくワイト島に集結した。当時のイングランドおよびノルマンディ海民はニシンが糧であった。ニシンの回遊時期が場所に異なるのでノルマンディ海民の漁期はイングランドより遅かった。イングランド海民の軍役は15日間であった。ちなみにイエスの最初の弟子はガリラヤ湖の漁師であったから,ローマ教皇の法冠は魚が意匠となっている。DMM.com の CEO は顧客を魚に譬えている。英語では詐欺を Fishing という。ネットの釣りはここからか。
ヘースティングズの丘でハロルドとウィリアムは合戦となった。ウィリアム軍は中翼のノルマン人,右翼はフランドルおよびフランス各地の混成部隊,左翼はブルターニュからの部隊だった。当時のブルターニュ人はブリトン人を意味していた。ウィリアムらノルマン人の話語はフランス語,ブリトン人の話語は英語である。第一次世界大戦の頃まではブルターニュでは「英語の歴史」という本によれば英語が通じたそうだから納得だ。英仏 100 年戦争の下敷きは既に10世紀にはあった。中国の史書にある倭国と似たようなものだ。倭民は南朝鮮と九州に棲んでいた海民であった。中華思想からみれば賤視対象であった。太平洋戦争時水兵だった父はシンガポールでジャンクをみている。日米海軍の死闘とは無関係にジャンクは華南と東南アジアを往来していた。見方を変えれば,ずっと昔からシナ海は中華帝国の統治を受けないシナ人の海であった。倭寇も実質はシナ人による私貿易海賊だった。
遠征
ハロルド対ウィリアムの知略はやはり攻勢側がイニシアチブを握れるようだ。1066 年9月27日天候が回復し,引き潮時に出航し 18:30 頃に艦隊を組んだ。日没は 17:34 であった。月齢6日で入りが22時だそうだ。月のない漆黒の海峡を横断した。日の出が 6:04,船団は 8:30 頃イングランド沖に達した。満潮が 15:14 で上げ潮が 10:30 頃まで洋上待機だ。米海軍の太平洋戦争における揚陸作戦を思わせる。戦車揚陸艦 LST の接岸は満潮時だけ可能であった。日本陸軍はガダルカナル戦では火砲の揚陸に成功したのは稀だった。弾薬糧秣も 1/3 程度であった。制空権がないからだった。たった1個中隊のワイルドキャットが阻止したといっても過言ではない。ノルマンディ上陸作戦時の上空にはドイツ軍機は皆無に近かった。
日本陸軍参謀本部の情報本部米国課の回想によれば,当時の米海兵教本では馬の揚陸が記述されていた大正期のものだった。ガダルカナル揚陸が上手くいかなかったと合衆国戦史は伝える。予定量の 1/3 だった。それにもかかわらず火砲および軽戦車の揚陸もやってのけた。重機がほとんど揚陸できなかったのが痛かったらしい。いかにもローマ以来の工兵重視の発想だ。火力なしに白兵突撃した一木支隊は 37mm 砲のキャニスター弾(散弾)と軽戦車機関銃により一掃され壊滅した。日米の揚陸成功合否の視点はかなり違うようだ。その後,レイテサイパンに至るまで水際防御はさっぱり成功せず,ペリリュー,硫黄島および沖縄では内陸防御となった。九州および本州本土でもそのつもりが,戦力と機動道路建設が間に合わず,水際防御に回帰した。サイパンだと濃密な砲門をしいたけど,半数が事前の艦砲射撃と空爆で消失した。対戦車火器もないのだから,もうゲリラ戦しかないのだが,中国共産党のように日本兵は訓練されていないので自立してゲリラ戦はできなかった。日本兵は精強だったと言われるが,それは年季の長い下士官の場合である。本土決戦では中核となる下士官層もなく新兵と急造士官で何ができただろうか。
ウィリアム軍はどうやって浜辺で馬を揚陸したのか。船体を傾けるそうだ。帆船だから可能だ。ウィリアムの危機は揚陸地点と泊地であるペヴェンシ湾をハロルドの艦隊により封鎖され,ノルマンディとの交通を絶たれる事だった。
日本海軍も捷号作戦ではその筈であった。栗田艦隊は給油に手間どり出撃が一日遅れた。宇垣は随伴駆逐艦へは戦艦から給油すれば良かったし,サマール沖でも水雷部隊を突撃させるべきだったとしている。給油は戦艦を考えていた。しかし,艦載機が飛来するような海域での給油は不可能ではないか。突撃した高速戦艦を除けば,レイテの大和長門は臆病だった。両艦は水雷部隊を後置してでも進撃すべきだったのかもしれない。不思議な海戦である。大岡昇平のレイテ戦記では恐怖のあまりひるんだとしている。結局,日本の戦艦はあのイタリア海軍戦艦のように補給船団を襲う事もなく臆病だった。戦艦を前衛に配置してみても,互いに後置の空母の叩き合いが主戦で逃げるしかなかった。沖縄戦での大和の航跡図をみると,最期は北方を指向している。大和はしきり航空支援を要請しているが,鹿屋の第5航空艦隊も全力で護衛したとは思われない。これも不思議な合戦だった。大艦の運用がおかしくしたなったのは速力と燃料にもある。大和は長大な航続距離があっても重巡3隻分の燃料を消費した。しかし,補給船攻撃に冷淡なのは陸軍からも非難されるくらいだから確かだろう。レイテの謎の反転はガダルカナルから一貫した海主陸従の思い上がりだ。大和が輸送船を砲撃するのは沽券にかかわると思ったのだろうか。やはり山本五十六と文科省前次官と被るな。役所とはそういうところなのだろう。存在意義の認識がおかしい。それはマスコミにもあてはまる。イージス艦は現代の戦艦みたいなものだ。それは保有している国々をみればわかる。
ハロルド軍には自由民兵が含まれていた。封臣でもなく農奴でもない。ロンドン周辺およびロンドン市の自由民だったのか。王位継承者はロンドンで推戴され就位する。ウィリアムも同様である。ロンドンはローマ人が建設した都市だ。ローマの自由とは軍役に就ける権利の事だった。西欧以外ではあり得ない概念である。それが合衆国憲法に武装の権利として自由民兵の概念が今でもある。古代アテナイの哲人ソクラテスは生涯3度の戦役に服し,誇りとしていた。合衆国には Veterans Day がある。County でもパレードがある。この合衆国民にとり当たり前の歴史がわからないと映画 Star Wars はわからない。紫式部の生きた時代の日本は武士が台頭して軍事を担っていた。武士は朝廷の被官であり,豪農層が軍役を課され従軍した。日本には古来から自由民兵はあり得ない。このあたりが日本軍とか自衛隊の弱さの根源だろう。
ウィリアムに征服される以前のイングランドは侵略される一方だった。イングランド伝統のロングボウ長弓兵はノルマン由来と知った。イングランド王は農民を徴発厳しい訓練を施しロングボウを組織した。フランスに渡海したイングランド軍は劣勢の騎兵をロングボウが遠射して騎兵の衝撃力を半減させた。英仏 100 年戦争である。爾後,スペインのアルマダも日本の元寇のように撃退し他民族に侵略される事はなくなった。逆にスコットランド,アイルランドおよび欧州に外戦する。大陸諸国と違い領土拡張ではなく航海のネットワーク確保独占が主目的であった。そのために王立海軍 ロイヤルネイビーを整備したが,とんでもない金食い虫であった。いつも国庫は空っぽだった。王は戦債を発行し,その引き受け元が金満イタリア諸都市,地中海交易が衰退するとロスチャイルドのような大陸由来のユダヤ金融が引き受けた。日露戦役では高橋是清が欧州に戦債を売りに行ったが引き受けがなく,合衆国のクーンローブ商会が引き受けてくれた。その後,日本は英米と海軍軍縮条約を結ぶほど国際的地位は上がった。
日本はシナへの軍事介入を強め,浜口首相は海軍大臣にもう軍事費の増大に耐えらないと告げるほど軍事国家になっていた。彼はテロにより暗殺された。海軍出身の岡田啓介内閣のとき,日本は軍縮条約を脱退した。軍事費の重圧で日本は破綻の淵にあるのに何とも不思議な決断であった。当時の最大仮想敵国は陸軍はソ連,海軍は合衆国だった。そして現実に戦っている相手はシナだった。官僚達は分裂症的帝国国防方針を天皇を前にして更新し続けていた。
ウィリアム軍のはるか末裔の米海軍は海兵を整備し,南太平洋のガダルカナルを襲った。合衆国の水陸両用戦は中世ノルマンディーのウィリアムまで遡るのではないか。ウィリアム軍の船団は旗艦ぐらいしか軍用船がなかった。イタリア諸都市のような帆走軍艦もなければ,古代ギリシャローマの軍船すらの域にも達していない。しかし小規模ではあるが,オーク製の竜骨キール,松材パインの舟板は頑丈な造りでたった3人で操船した。このあたりに西欧の秘密がありそうだ。西欧ではヨットがスポーツとして人気がある。地中海では帆走がレースとかスポーツになる事はなかった。古代ローマでは漕ぎ手は奴隷だった。戦争がなくなれば奴隷の供給がなくなり海軍も衰退してしまう。地中海世界が大航海時代で衰退するのは長い長い北海帆走の前史があったのだろうと思う。イングランドでは魚は下層民の食糧であった。日英とも海民ながら,ローマ帝国の影響を受けるか,はたまた漢帝国の影響ではずいぶんとその後の歴史は変わったようだ。
大航海時代,オランダのたった2隻の武装商船はマゼラン海峡を通過すると,長躯日本を目指した。リーフデ号である。その航海士がイングランド人三浦按針である。航洋性と強度に優れたキールを具備した船を家康の命で製造するが,鎖国とともに忘れ去られた。天測器具も普及する事はなかった。
外洋船
馬,車,船を効率良く利用した西欧とりわけイングランドと全く関心を持たない日本。頭の中では海上護衛戦,兵站,補給戦が総力戦となった一次大戦から学んだはずだが,なんとも絶対国防圏は名称だけは勇ましかった。なんとなく現在の専守防衛と重なる。大義名分論の本場,シナでは中国共産党の毛沢東が遊撃論を発表していた。優秀とされる官僚がどんだけいたとしても,戦略を描き切れなかった日本だ。やはり,苦境危機に際して指導者を選抜擁立できるかどうかか。明朝は莫大な金をかけて艦隊を整備してアラビアまで遠征したが,ネットワークを維持できなかった。幕末の伊藤博文は留学生として大英帝国のネットワークを通ってイングランドに留学した。彼はその原因を船と鉄にみた。伊藤が暗殺されたのが 1909 年,1936 年海軍軍縮制限がなくなり軍備増強となり,日本はさらに貧国へ転がりこんだ。中世のウィリアムはノルマンディが保有する貨物船を動員して渡海した。日本は戦前,ノルウェー合衆国船籍の海上交易に依存していたのに開戦した。商船が不足しているのに戦争となると,大量の油槽船,貨物船が軍用に徴用される。仏印に原油,ボーキサイト,ゴムを確保しても運ぶ船がない。ニミッツ提督は輸送船を三角運用しない日本に呆れている。現代日本船籍の外洋船は微々たるものだ。たとえシナ海のシーレーンを守れたとしても,航海してくれる外国船籍の船がどれだけあるだろうか。せめて,電力エネルギ源の石炭,LNGおよび原油の負担を少なくするために原発を維持したらどうだ。
兵站ロジスティックスを無視した日本軍だったが,陸自は東日本大震災で反省したようだが,あいもかわらないのが海自だ。3隻の輸送艦があっても即応できなかった。北海道の自衛隊を東北に運んだのは米海兵の輸送艦だった。。。何のために海自は存在しているのだろうか。そういう手筈になっていたのかもしれない。イージスもいいけど,なにか日本の海自はズレている。それとも菅内閣が海自出動を抑制したとも思えないが,菅さんの観艦式の様子をみるとそれはあり得るかもしれない。彼の父は船大工だったそうだ。父と確執があったのだろうか。
参考
バイユーのタペストリを読む(中世のイングランドと環海峡世界)p40同上 p240
同上 p249
同上 北海と海峡でのニシンの漁期 p233
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