住宅用高原適地が少ない
近年,暑さがきつくなったと感じる。彦根気象台によれば,ここ 100 年の間,最低気温が0℃未満である冬日は約26日減少したそうだ。20年だと,5.2日に相当する。積雪がなくなった実感と一致する。
夜間涼しければ,快適だろうと思い Goole Map 地形図で高原を探したが人が住むのに適地が少ない。山間部ばかりだ。せいぜい甲賀市と日野町の標高 170 m と 188 m だけである。
高緯度に移動するよりは,200 m 高地に移転すれば気温は 1.2℃ 下がる。ロープウェイのある比叡山麓はかなり涼しいが,斜度がきつく平坦な土地がほとんどない。豪雨になれば地滑りの危険度が高く,素人では地勢の判断が急斜面だと難しい。山間部でも人が住んでいるのは決まって峡谷だけである。おそらく水田のためであろう。子供が通った山間部の自由学校でも湧き水を利用した稲栽培を学習していた。何で日中でも日が射さないような狭隘な谷底で学習するのか理解に苦しむ。考えようによってはいかにも日本的である。日本人にとり水田耕作は神事に近い。天皇陛下もお田植をなさる。
東京に住むようになりやたらとアパートの名称にハイツが多いのに気付いた。進駐軍が○○ Heights と名付けたためだろうと思う。学生の頃,イスラエルとシリアがレバノンの覇権を巡り,争っていた。その係争の地がゴラン高原だった。大規模な戦車戦も生起し,荒れ地を想像していたが,これも Google Earth をみると異なった。低緯度のレバント地方では,高原は住むのに適しており牧羊地だったのだろう。
Google View をみれば,ガリラヤ湖周辺の美しい山麓が見られる。炎暑の地中海から南北を貫く山地を抜ければ,だらだらと死海へ高度が下がっていく。山上の垂訓も日本の山とは全く異なるイメージなのだろうと思う。日本の代表的霊峰は比叡とか高野山だ。身延山も永平寺も前者を踏襲しただけだ。中東では高原が係争の地となり,映画ベンハーに出てくるような戦車もレバントで発明された。日本では狩猟を主とした縄文人は山地に住み,やがて水稲栽培に移行して峡谷と湿地に移動したのだろう。湿地帯では道路建設もままならず,争いも戦車どころか騎馬戦も鎌倉期を除いてなくなった。日本では当たり前の水耕とライフスタイルが麦作を中心とするグローバル社会ではその規範が通用しないのは当然か。日本の知識人の間ではムラ社会と称される。例えば原子力ムラとか。その排他性が特徴だ。
太平洋戦争期,かつて昭和天皇はニューギニアのブナからスタンレー山脈を越えてポートモレスビー攻略を示唆した。天皇を忖度した参謀本部は現地軍に侵攻計画を強行させた。現地は補給難から実行を渋っていたが,天皇の名を出されてはどうしようもない。道を開削しながらポートモレスビーを目指した。酷暑の海抜0mから氷点下の高地を経て,いくつも峠を越してポートモレスビーへ踏破した。意外にも豪軍は高地に少数の陣を敷いていた。この陣地を抜くのに時間を要し,糧食と弾薬切れで撤退となった。谷を越えて後方の高地に歩兵砲を据えて陣地を砲撃するのに日数がかかったからだ。
兵站計画は現地軍が立てていたものの,参謀本部が独断でブナ行の補給船をガダルカナルに転用してしまい徒労に終わった。引き返し海岸に籠ったものの豪軍の砲撃で壊滅状態になった残軍はニユーギニア東部を目指して道を開削しながらの敗走となった。その後,参謀本部が反攻計画を準備している間に,その背後から空爆された。連合軍は補給道のないニューギニア高地に空挺部隊を投入して秘密飛行場を建設していた。高地は海岸のように蚊も蝟集することなく,酷暑を避けて現地人が耕作していたから,今思うと合理的である。日本陸軍の愚策の遠因は棚田稲作にあるのかもしれない。縄文以来,日本列島沿岸水系のネットワークがあったのに日本海軍も海の道に関心が薄かった。日本の貿易は戦争前,合衆国とかノルウェーとか連合諸国の傭船に依存していた。開戦すると,商船は陸海軍に徴用され,国民はさらに耐乏生活となったにも関わらず,ラバウルより先に侵攻しようとした。合衆国は戦争を決意すると,まず50か所の船台を建設し建造の容易な輸送船から 100 隻単位で建造を始めた。ハワイの太平洋艦隊司令部の仕事は補給計画と補給を円滑にする事だった。その頃,連合艦隊司令部はトラックに在泊して,軍楽隊付きのフルコースの食事をしていた。ラバウルから 1000 km 以上離れたガダルカナルで作戦は不可との正論を主張した二見参謀長は左遷され,上述の希少輸送船はガダルカナルに転用された。ソロモンニューギニアに投入され失った高速優秀船の代償は余りにも大きかった。戦争目的だった南方資源が日本に環送されなくなった。ニミッツ提督は輸送効率の良い三角輸送を何故日本軍がしなかったのか疑問を呈している。日本人同士の戦いなら通用した補給戦は,秀吉の朝鮮役から破綻していたと思う。清国露国との戦争では,輸送単位は人が担ぐ行李であった。第二次大戦では馬挽輸送を廃止した唯一の合衆国相手に,日本は行李を運んでゆるゆると師団は作戦移動していた。物量の移動速度は隔絶していた。その米軍もベトナムでは補給に難儀した。物資が集積所にあっても必要な所に必要な物が届かないのだ。
斜面に羊とかヤギを放牧して暮らすのは日本では不向きなのだろうか。棚田を美しいとみる美的感覚はあるものの,機械畜力も投入できない水田稲作だ。イタリアでは急な斜面に先祖代々ブドウを栽培している。ギリシアは狭隘な山地ばかりだ。一面オリーブ畑である。温暖化がすすみ,孫の世代に南九州四国沿岸の柑橘類栽培は不適地になる。海面も上昇するから,沿岸にある土地も風水害に脆弱になる。海岸沿いの交通網維持も大変だ。それでも,我々は住み続けるのだろうか。3.11 を省みると高台への移転移住は頓挫して,元の海岸でのコミュニティ再生となった。先祖代々の土地を捨てて移動移住は不可能なのだろう。もうこれは土地神信仰だね。日本の大都市は海に面した低地だ。大阪,名古屋および東京の沿岸にオランダが建設したような大防潮堤を建設しなければならないだろう。もうこの頃には,貿易は寂れ港湾施設は神戸のように閑古鳥がないているだろう。閑散とした神戸の岸壁をみると,東京横浜と名古屋の繁栄ももう長くはないのではないか。日本は東アジア交易の敗者である。今後栄える可能性があるとしたら,北九州博多と北海道の釧路港くらいではなかろうか。合衆国も栄える港は北上している。南部チャールストンは交易港の繁栄は全くないし,西海岸のサンフランシスコはロスアンゼルスからシアトルおよびバンクーバに中心が移っている。合衆国は移民排斥が強まり,カナダが北米移民の中心になるかもしれない。カナダの華人朝鮮人コミュニティは強固だ。日本はシンガポールのような多民族国家にはなりようがないから,スイスのように国防と外交を政府に任せ,自治を重んじる連邦制にしたらどうだ。エネルギ電力も国家任せにせず,各州が決定権をもつ。新潟県内の東京電力の発電所とか沖縄県の米軍基地とか改善されるのではないか。3.11 は東電を分割解体するチャンスだったが,経産省は省益のためか逆に国有化してしまった。国鉄電電公社の民営化と異なり,大きな禍根となるだろう。我々は東電のために高い電力料金を払い続けなければならない。経産省の最大利権のエネルギ分野は,強権的だった安倍政権でも手をつけられなかったから,後継内閣ならさらに絶望的である。ロシアだとガスプロムが政府と一体となった利権構造となっている。戦前の岸ら革新官僚が目指した統制社会はエネルギに関する限り,地域独占電力会社が解体されることもなく実現した。両国のエネルギ統制が今後,うまくいくとは思われない。統制は競争がなくなり効率が下がるからだ。今話題の戦略特区にしても,愛媛県の獣医師学部の誘致に矮小化されてしまった。教育は全くの自由,エネルギでの自由化すればいい。政府は外交と防衛に特化すればいい。文科省も経産省も既得利権となる補助金をバラ撒く必要はないのではないか。この構造は旧民主党でも不変であった。せめて新規参入の阻害を止めてもらいたいが,不祥事があると規制は増えて役所は焼け太りする一方だ。滋賀県内の高地への転居はデベロッパーが山地を切り開かない限り,霊園くらいが関の山か。
とりあえず,甲賀と日野周辺の物件を探してみようかな。標高は 200 m 以上が目安だ。日本の国土利用は厳しく規制されている。自治体および企業が積極的に高原開発でも乗り出さない限り無理か。電話で勧誘のある新設霊園は高地が多い。資産価値が著しく劣化したら,先祖代々の土地を捨てられない現世代と異なり,孫の世代は土地を放棄するかもしれない。個人的にはマラリアが発生するような南九州四国沿岸および沖縄に住みたいとは思わない。小沢一郎議員は沖縄に豪壮な別荘を建てたけど,吉田茂,岸信介邸のように一代限りか。イタリアを旅すると,ルネサンス盛期に建設された貴族豪商のほれぼれするような美しい邸宅が多く残っている。スイスになるとそれが皆無になる。現在,スイスは最富裕な国家の一つである。
世襲貴族が文化を創造する社会と市井の市民が創りだす都市文化のどちらが優れているのか,私にはわからないが,日本はどちらでもないのは確かなようだ。彦根にみられるような旧武家屋敷はそれなりの文化を感じさせるが,暖房のない寒い住みやである。豪商豪農は厳格な差別制度があり,まともな商家農家を建設できなかった。明治以降,彼らは武家を真似ただけであった。関西に著名な建築家安藤忠雄の作品が多くある。実にすっきりしているが,どれも樹木に乏しく機能性に欠け,住宅に至っては老人が住むには不適当である。見た目はとてもいい。何か旧日本軍と同じ体質を感じさせる。足利将軍義政が創りだした書院造りがその原点ではなかろうか。日本人の生活美意識は窮屈さにあるように思えてならない。開放とか自由とは無縁の文化である。天井も息苦しさを感じるほど低い。いまだにJR京都駅のホームには屋根がなく雨天の乗降の際,濡れる。簡単な屋根すら設置せず,全く無関心である。安藤忠雄氏の住宅も同じである。
狭い茶室を愛好するような民族が大国の中国とか合衆国と戦争したのが愚かだったのだろうと思う。愚かな兵器の人間魚雷「回天」も有人有翼爆弾「桜花」もわびさびの茶器の延長だったのかもしれない。西欧のヒューマニズム文化はイタリア諸都市から西欧自由都市に伝播し,オランダに至って人権思想に結実した。京都の五山文化が窮屈な日本文化の原点とすれば,日本フェチの外国人が京都を賛美するのもわからんでもない。京都は忍耐と我慢が美徳の文化である。馬挽耕起を止めて人力耕起に回帰した江戸システムと同じ原理だろうと思う。楽を追求するアメリカ文化とは対極にある。
参考
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