2019/12/05

300万の游兵と一撃講和論

米軍は B-29 により機雷を敷設し,関門海峡と瀬戸内海は大型船の航行が不可能になった。大和が沖縄に出撃する頃である。米潜と沖縄から飛来する米陸軍機により,関釜航路は途絶した。日本の輸送船が最後に運んだのは こうりゃん,トウモロコシそして塩だった。国内に塩が不足して,馬の斃死が予想されていたからだった。ニミッツによると,飢餓作戦と言われていた。米海軍が日本本土を封鎖したからだ。その中心は潜水艦であった。もう,この頃にはグアムら出撃していた。哨戒していても,ほとんど戦果が上がらなくなっていた。

一方,政府は根こそぎ動員をした。国内に米軍を迎え撃つ兵力がなかったからだ。その作戦計画は作戦部長宮崎によるものだった。動員したものの装備劣悪,天皇独白録によれば対戦車砲がなかったそうだ。一人の兵を養うのに,国家は100人の民を要する。古代から変わらない法則だ。動員された農村は疲弊し,食糧生産が低下した。動員された再招集兵の犯罪が憲兵により報告されている。多くは食糧の盗みである。一撃講和と言いながら,松代大本営を建設していた。その建設には朝鮮人徴用工も含め白米が支給された。その頃,大都市ではイモのつるが配給されていた。陸軍省に出勤すると,ご飯が食べられた。他の省庁も同様だったのだろうか。

気になるのは九州陣地構築する兵には食糧を支給せず,松代は白米だった事だ。北鮮軍と同じである。この差別は天皇との距離にある。戦後,共産党は指導し,「米」よこせのメーデ事件を起こした。あるところには米が,いつのときでもある。飢餓に襲われた南方軍では,将校へ割り増し配給を実施した。当然,兵卒の生還率は下がる。それでも,反乱は起きなかった。

九州に米軍が上陸する段になっても,日本陸軍は中国満州に 171 万,50% の兵力を配備していた。東條がシナからの撤兵を拒否して,対米戦に踏み切ったせいだろうか。この兵力を引き上げて,食糧増産していたら,一撃講和は無理としてもゲリラ戦はできたかもしれない。陸軍はゲリラ戦できないと結論づけた。日本兵は命令されるだけで,判断できないとの理由だそうだ。個の戦いができない。サッカーの本田を思い出す。

毛沢東の指導した中国人は確かに個人主義的である。朝鮮戦争で人民兵士は平気で投降した。日本兵はレミングのように集団自殺(玉砕)をした。死を受容する同調圧力とは何だろうと思う。弾もないのに,工兵として 315 万人動員したのだろうか。その割には陣地構築,機動道路の建設がすすまなかった。言い訳はシャベルがないだった。原因は食糧不足と司令官というか,参謀らのリーダシップだろう。参謀本部の宮崎は補給はない。自活せよと西部軍管区に伝えた。参謀本部は九州での一撃講和構想を止めた。関東での決戦を目論むつもりだったのか。

九州防衛戦でも戒厳布告を予定していなかった。市民は沖縄同様の扱いとなった。鹿児島の官選知事は避難計画を立てなかったようだ。県庁県民も西南の役と同じような感覚だったのだろうか。防火帯を整備したものの市内の9割を焼失した。防火帯の幅が少なかったのか,それとも空襲回数が多く,意味をなさなかったのか。総務省の編集資料によれば,6月17日の空襲投弾量が3,058トンと多かったせいとしている。東京大空襲は3月10日にあった。この戦訓を活かして,延焼を防ぐ手立てをしたのだろうか。戒厳令を施行して,軍が主導的に防火対策とはならなかった。内務省も陸軍の越権が気に入らなかったのか,それとも軍は市民が足手まといだったか。多分後者だろう。

食べ物もない状態で,防火帯拡張どころではなかったのが実相か。戦前,台湾および朝鮮米がないと本土では米の自給はできなかった。合衆国は日本の統計情報を駆使して,飢餓作戦を策定したのだろう。戦争計画を立案したのは民間のビジネスマンそして学者だった。その手段を提示しアドバイスするのが軍人の役目だった。日本も陸軍が音頭をとり総力戦研究所を設置したものの,東條はこれを排除して,作戦部主体の戦争計画を遂行した。東大卒の技術将校が設計する爆弾と石油会社が設計した米軍焼夷弾,どちらの性能が優れているか,戦後日本の発明品をみれば自明だろう。

九帝大生体解剖事件は6月2日で途絶えている。空襲が酷くなり敗けを意識したせいだろうか。敵愾心のためなら,長崎原爆投下でさらに激化しそうなものだが,そうはならなかった。B-29 の乗員は戦犯か,それとも捕虜のどちらだろうか。裁判をしていないところをみると,後ろめたさがあった。そして埋葬をしなかった。日本に仏教が普及して,関ケ原の合戦では敵味方を問わず,塚を立てて埋葬するようになった。鬼畜の様相を呈するのは,皇国史観の影響だろうか。陸大帝大の教育において人道精神は省みられなかったのだろう。

大戦末期,本土封鎖されてても,海外には 300 万の兵力を有していた。シナでは大規模な打通作戦を実施して大量の軍需物資を消費した。中国軍が弱すぎて,避退戦術をとる必要がなかったせいか主力が大陸の温存されたのだろうか。比島,沖縄を失陥すると,一撃講和論が囁かれるようになる。日本は常に攻勢防御の方針を貫いた。一方,米軍は遅滞避退戦術を採った。欧州ファーストだったせいだ。アフリカ上陸のトーチ作戦を成功させると,護衛空母を太平洋に回航して対日反攻に乗り出した。日本は欧州戦と何ら連携がなく,対ソ静謐を頑なに実行していた。一撃講和論もソ連に期待していた。2月の事だった。

今,日本は韓国に強腰でロシアにはソフトである。韓国をかつてのシナに置き換えれば戦前と同じでなかろうか。ロシアの GDP は韓国と同程度である。隆盛の韓国を叩くのではなく,衰退ロシアに揺さぶりをかける政策こそが日本の外交ではないかと思う。しかもロシアは資源国である。戦前の日本は対シナ,対ソ政策を誤り自ら合衆国の包囲網に嵌った。

吉田首相は昭和天皇に朝鮮戦争を天祐として内奏したそうだ。今回の対韓政策はどうだろう。ただ,食糧とエネルギは戦前より,はるかに多くを海外に依存している。国民餓死前提の一撃講和論を練っていたのは,名もない軍事官僚だった。イタリアのバドリオ政権も本土に連合軍が上陸してからである。餓死者が出る中での捨て戦であった九州防衛戦がなかっただけでもましだったか。

対韓問題がギクシャクしているなかで,NHK による天皇拝謁記の政治的リークが気になる。

参考
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