2023/03/18

昭和天皇と軍司令官

昭和天皇は石原とか山下を忌避し,東條に信を置いていた。陸軍大臣参謀長人事には言及しても,海軍人事には関心はなかった。日本は大東亜戦争と呼称し,対米戦は二義的であった。当の合衆国大統領FDRは米海軍将官録を机上に置くほどの海軍通だった。実際,海軍長官所管の人事軍政を直接指示した。護衛空母の大量建造とニミッツの選抜だった。当時のニミッツは航海局長の海軍少将であった。当然ながら,ニミッツと海軍長官とはソリが合わない。ニミッツは海軍軍人の最高職位海軍作戦部長を短期で終わった。

一方,昭和天皇の弟の高松宮は軍籍は海軍であったためか,ニミッツの太平洋艦隊司令長官就任を潜水艦戦を指向していると正鵠を射ていた。昭和天皇は弟宮の具申を海軍に影響を受け過ぎているとして退けていた。まあ,日露戦争当時の海軍音痴のロシア皇帝みたいなものだったかと思う。

大本営は大東亜共栄圏と称して,太平洋の50以上の島嶼に陸軍兵力を配備したが,米海軍は比島すらパスして,グアムを奪回しようとした。日本は南方資源を還送する輸送船が半減しても,対中戦が一義的で打通作戦に軍備軍費を注ぎ込んだ。鎖国していた幕末の藩士の方が昭和の軍人より海からの脅威を的確に認識していたとは,どういう事なのだろう。

明治の国防方針が異常だった。陸海軍で仮想敵国が異なっていた。東條首相は総力戦遂行に支障をきたす米潜による輸送船喪失に悩まされていた。海軍は300隻の海防艦がないと,海上護衛はできないと政府に開き直った。開戦前の海軍想定とは違っていた。しかし陸軍を中心とする総力戦研究所のシミュレーションによれば,補給線を絶たれ対米戦は必敗の結果だった。これは一次大戦の結果からの推計だった。東條の開戦決意は潜水艦も航空機もトラックもない日露戦争に基づいた結論だった。

比島戦では軍馬も送れず,兵士が挽き馬の代わりとなった。レイテ沖縄では鉄道がないから,より悲惨であった。沖縄戦では中学生が背負子を背負って食料弾薬を運んだ。九州決戦では運ぶ弾薬すらなかった。陸軍作戦部長は補給なしで戦えと指示している。ソ連の介入待ちだったのだろうか。

本土決戦は軍馬もない,明治以前の迎撃戦。鉄道から米軍が揚陸する浜まで人力輸送。計画していた熊本を起点とする機動軍道はできなかった。一方,ソ連は餓死者を出すほどの飢餓の中,大規模なレニングラード防御陣地を築いた。巨大な対戦車壕に圧倒される。日本陸軍は東京を守る対戦車壕を建設しなかった。その代わり,松代大本営建設に着手した。東條内閣が決定した。東條の腹の底は本土上陸戦放棄であったのだろう。

それでも,昭和天皇は九州迎撃計画のなかで,対戦車砲がないと知り驚いている。東條よりマシであった。同じ頃,東條は国民に敢闘戦神が欠けていると天皇に上奏していた。インパールの牟田口と全く同じ考えであった。

日独戦犯を裁くポツダム宣言をリードしたFDRの本意は反ユダヤの根絶が目的だったか。結局,東條は「人道」に反する罪で断罪された。昭和天皇は自身の免責の目処が立って,講和に同意した。

米軍は飢餓に苦しむ沖縄県民向けの食料およびテントを用意して沖縄戦を開始した。牛島司令官は山下のように現地民を慮る余裕がなかった。自身の病気でそれどころではなかったか。防御線を適切に設計すらできなかった軍司令官であった。陣地構築が二転三転した。九州関東防御陣地構築も似たような経緯になりつつあった。結局,水際防御に回帰した。サイパン戦と同じ戦法である。

九州防御陣地構築よりも松代建設開始の方が早かった。所詮,九州は毛外熊襲の地であったか。第2総軍の畑は飾りだったのか。畑が陣地構築を指示した記述はない。参謀本部派遣の参謀が勝手に線を引いていたのであろう。当時の作戦部長はガ島戦指導に失敗した宮崎参謀が栄進していた。負け戦ともなると,できの悪い軍人が引き立てられていく。

日露戦争だと,参謀総長自ら203高地に赴いて問題の収拾に乗り出したのだが。インパールで失敗したにも関わらず,牟田口の上長河辺は第1総軍司令官にまで栄進した。インパール同様,餓死に至っても降伏はなかっただろう。降伏命令を出せるのは軍司令官以上である。果たして「畑」はどうだったか。

対日占領政策に関心のない米海軍は飢餓作戦中心だった。昼は戦闘機,夜は魚雷艇が跋扈,放置された奄美九州中北は飢餓が襲う。


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