勇気と労働
ハガイ書に「勇気を出せ,働け」とある。働くのに勇気とは少し変だなと思い,英訳をみると, Be strong になっていた。勇気とは精神的な事であろう。主の宮で石の上に石が積まれなかった前は,収穫が半分しかなかっただろうと言う。なるほど,労働して,宮建設の勧めである。
バビロンからの帰還後,民は自宅の建設に忙しかった。神殿建設が進まなく神官は苦々しく思っていたのであろう。麦の不作は神殿再興をないがしろにしているからだとハガイは言う。
主の言葉として,「わたしは国々の王位を倒し,異邦の国々の力を滅ぼし,また戦車,およびこれに乗る者を倒す。馬およびこれに乗る者は,たがいにその仲間のつるぎによって倒れる」とある。当時の恐怖心の発露だろうか。周辺の王国の軍事力が脅威だったのだろう。帰還したユダヤ人には多分,戦車,騎兵のような軍事力がなかったのであろう。帰還は許されたけど,重武装の保持をダリヨス王が禁じていたのか。
信仰の自由は認められたけど,王を擁立できず,軍権が制限されていたのであろう。何となく戦後の日本と重なる。戦前の日本は800年ほど,軍を指揮した事がない天皇に武威を仮託したのが誤りであった。西欧では神権と軍権は一体化したから,元首たりえたが,軍事的才のない天皇が国家元首になって何の意味があるのか。ドイツオーストリアの大統領のようなものか。軍を閲兵し,官吏を認証してもらいたいのが安倍首相の本心だろうか。本当に天皇を元首にしたいなら,天皇宮様の軍事教練はどうなさるつもりなのだろう。英国王子のように,軍務をしていただくか。
さて南北朝期の争乱でも戦死した親王は皆無ではないか。いくら南朝側が正統性を唄っても,背後から武装勢力を操るだけでは,国を統治するのは困難だったのだろう。護良親王とて,どれだけ股肱の臣(ブレーン)がいたか。武士のように紐帯の強い家臣はいなかったのではないか。
軍事大国とは程遠い古代イスラエルが軍事力がないが故に,頑なに奇妙な一神教を保持し続け,アッシリアを始めとする諸帝国と最後の大英帝国の支配まで,存続しえたのはコミュニティの存在だった。これはバビロン捕囚の時代に遡る。どうも,日本人のコミュニティは土地が代わると途絶えがちのようだ。うわべだけの国家神道が朝鮮,台湾まで広がったが軍事力を失うと萎えてしまった。大英帝国のように植民地の分割統治という発想がなかった。日本でもままにならない八紘一宇の精神を押し付けた。
英国が王権をコントロールできたのは長い長い議会の歴史と王を断罪できた経験があるからだ。逆に日本は大王が朝鮮への外戦に失敗すると,天智天武の天皇独裁制へと中国の皇帝制に習ったようにみえたが,お膝元の奈良京都でも上手く機能せず,京都の都建設も放棄され,治安も悪化し 862年頃,朱雀大路には盗賊が跋扈するようになった。政務を司る大極殿も使われなくなり,荒れ放題になった。多分,新羅からの使節を応接する必要がなくなったのであろう。形骸化した律令制のなかで最低限の治安が必要だったので,令外の官を設置した。それが検非違使だった。法律があっても法律の枠外の軍事警察機構だった。取り締まる警察が無法とは変な感じだが,今の自衛隊をみれば似た様なものだろう。院政時代には北面武士を設置している。これも形骸化し,任官はするが,実際の警備はしていなかった。やがて治安は幕府の詰め所(探題,所司代)が担当していた。関東武士にとり京都警護の大番役は大きな負担だった。
さて,再建されたエルサレムの神殿の警備はどうだったのだろうか。ローマ時代の大祭司の役人は着剣していた事がわかる。だからといってその役人は単なる僕であり騎士(武士)ではない。イエスが弟子に布教に出かける際,剣を用意するように言っているから民間人の武装はイエスの時代,サマリアでは普通だったのだろう。エルサレムではどうだったのか。京都の高級貴族(官僚)は自宅の警備を武士に委ねるようになった。どうも,日本の軍事警察はアウトソーソングの歴史か。

にほんブログ村
バビロンからの帰還後,民は自宅の建設に忙しかった。神殿建設が進まなく神官は苦々しく思っていたのであろう。麦の不作は神殿再興をないがしろにしているからだとハガイは言う。
主の言葉として,「わたしは国々の王位を倒し,異邦の国々の力を滅ぼし,また戦車,およびこれに乗る者を倒す。馬およびこれに乗る者は,たがいにその仲間のつるぎによって倒れる」とある。当時の恐怖心の発露だろうか。周辺の王国の軍事力が脅威だったのだろう。帰還したユダヤ人には多分,戦車,騎兵のような軍事力がなかったのであろう。帰還は許されたけど,重武装の保持をダリヨス王が禁じていたのか。
信仰の自由は認められたけど,王を擁立できず,軍権が制限されていたのであろう。何となく戦後の日本と重なる。戦前の日本は800年ほど,軍を指揮した事がない天皇に武威を仮託したのが誤りであった。西欧では神権と軍権は一体化したから,元首たりえたが,軍事的才のない天皇が国家元首になって何の意味があるのか。ドイツオーストリアの大統領のようなものか。軍を閲兵し,官吏を認証してもらいたいのが安倍首相の本心だろうか。本当に天皇を元首にしたいなら,天皇宮様の軍事教練はどうなさるつもりなのだろう。英国王子のように,軍務をしていただくか。
さて南北朝期の争乱でも戦死した親王は皆無ではないか。いくら南朝側が正統性を唄っても,背後から武装勢力を操るだけでは,国を統治するのは困難だったのだろう。護良親王とて,どれだけ股肱の臣(ブレーン)がいたか。武士のように紐帯の強い家臣はいなかったのではないか。
軍事大国とは程遠い古代イスラエルが軍事力がないが故に,頑なに奇妙な一神教を保持し続け,アッシリアを始めとする諸帝国と最後の大英帝国の支配まで,存続しえたのはコミュニティの存在だった。これはバビロン捕囚の時代に遡る。どうも,日本人のコミュニティは土地が代わると途絶えがちのようだ。うわべだけの国家神道が朝鮮,台湾まで広がったが軍事力を失うと萎えてしまった。大英帝国のように植民地の分割統治という発想がなかった。日本でもままにならない八紘一宇の精神を押し付けた。
英国が王権をコントロールできたのは長い長い議会の歴史と王を断罪できた経験があるからだ。逆に日本は大王が朝鮮への外戦に失敗すると,天智天武の天皇独裁制へと中国の皇帝制に習ったようにみえたが,お膝元の奈良京都でも上手く機能せず,京都の都建設も放棄され,治安も悪化し 862年頃,朱雀大路には盗賊が跋扈するようになった。政務を司る大極殿も使われなくなり,荒れ放題になった。多分,新羅からの使節を応接する必要がなくなったのであろう。形骸化した律令制のなかで最低限の治安が必要だったので,令外の官を設置した。それが検非違使だった。法律があっても法律の枠外の軍事警察機構だった。取り締まる警察が無法とは変な感じだが,今の自衛隊をみれば似た様なものだろう。院政時代には北面武士を設置している。これも形骸化し,任官はするが,実際の警備はしていなかった。やがて治安は幕府の詰め所(探題,所司代)が担当していた。関東武士にとり京都警護の大番役は大きな負担だった。
さて,再建されたエルサレムの神殿の警備はどうだったのだろうか。ローマ時代の大祭司の役人は着剣していた事がわかる。だからといってその役人は単なる僕であり騎士(武士)ではない。イエスが弟子に布教に出かける際,剣を用意するように言っているから民間人の武装はイエスの時代,サマリアでは普通だったのだろう。エルサレムではどうだったのか。京都の高級貴族(官僚)は自宅の警備を武士に委ねるようになった。どうも,日本の軍事警察はアウトソーソングの歴史か。

にほんブログ村
- 関連記事
-
- 原発建屋乾燥時期は2020年
- 勇気と労働
- 蓮と葡萄
コメント