官僚主義と資源
30年後には,子供を産む女性の3大都市圏への集中により日本の農村社会が崩壊する事は自明となった。現在の天皇は明治の立憲君主制と実質的に何ら変わるところはない。今も明治も,天皇には実権,君主なら自明の統帥権すらなかった。昭和の混乱は煎じ詰めれば,陸海軍の軍事官僚の暴走とソ連型国家を夢見た革新官僚の統制社会の実現だった。戦後,防衛費の枠が定められ防衛官僚の存在感は著しく低下した。ただ厚生労働省,農水省,文科省そして経産省は予算規模を拡大させ,官僚の裁量権も戦前と変わる事がなかった。省庁の利権の温床となっている特別会計がある。年金基金の運用のでたらめ加減は酷かった(厚生年金ホテル,しごと館)。効率は一切,考慮されなかった。
戦前,陸海軍は自前の工廠を保有し兵器を生産していた。各工廠は特別会計で議会の承認は不要だった。その最大品目は弾だった。ここでも非効率が甚だしかった。太平洋戦争末期,本土決戦を控え根こそぎ動員で兵士は確保したが,銃火器が不足していた。師団を創設しても銃がないのだ。さらに,酷いのは本土上陸に備えて九州では小銃弾すら充足率は半分,大砲弾に至っては1/3以下だった。弾を独占的に製造していたのが陸軍工廠だった。戦争末期になって,生産拡大に方針を変えた。生産管理工学に長けていると思われる,数学者に調査を依頼すると,とんでもない不良率を出していた。製造装置は日露戦争当時のままだったという笑えない実話がある。ソ連の官僚も非効率だったが,弾薬の生産は日本のように低調になる事はなかった。恐らくソ連では生産が滞ると責任者が粛清されたのであろう。日本では何故,このような事態に至った理由は官僚の無謬性にある。なぜ日本官僚が無謬なのか,それは天皇の臣下だったからだ。大和民族存亡をかけた戦争を発起しながらずいぶんと間の抜けた話だ。しかも工廠責任者,高級技術将校は陸海軍大学校および東大卒の軍事および技術官僚達だった。日清戦争では各藩が保有した雑多の小銃を整理して戦争に入り,弾の補給に大きな関心を払っていたのだが。
小銃弾の品質管理の重要性にいちはやく気づいたのは,ナポレオンが実権を掌握する直前の革命政府下のフランスだった。標準規格化を試みたが,上手くいかなかった。かの有名なジェファーソンがフランス滞在中 (1785-1789) に規格互換性に着目し,その概念を合衆国に移植した。凡庸だが偉大なこの技術を日本が戦後アメリカら学びデミング賞を創設した。
太平洋戦争において,日本陸海軍の戦闘機は計5種類の20mm機銃弾を使用した。米陸海軍戦闘機は統一銃弾 12.7mm 弾だった。ラバウルに日本陸軍機が飛来しても,弾がない。海軍には弾に余裕があっても戦闘機が損耗してなかった。陸海軍の既得権益が機銃弾の統一を妨げた。米軍はガダルカナル,レイテのタクロバン等では弾の相互融通があったに違いない。ガダルカナルでは海軍提督が陸軍戦闘隊を指揮していた。その後の上陸作戦では,陸海軍戦闘機隊は別々に侵攻し,沖縄でまた合同した。ただし,米陸海軍の間でも食事の違いは大きかった。サイパンには B-29 爆撃航空団の司令部があった。近くのグアムには太平洋艦隊司令部が真珠湾から移動していた。東京大空襲作戦を計画して悪名高いルメイがグアムのニミッツに招待されたとき食事のフルコースに驚いている。兵舎にはシャンデリアもあったそうだ。日本陸軍の参謀がトラック島,在伯中の大和内の連合艦隊司令部に招かれたときの食事の豪華さにも驚いている。戦艦大和には食糧用の冷凍冷蔵庫設備があった。横須賀のカレー大会では潜水艦の糧食がトップになった。父は海兵団に徴兵されたあと,駆逐艦に乗り込んだ。食事は豪華だったという。陸海軍が仲が良くないのは食事の差だと言っていた。東條は師団長になっても,兵卒と同じ粗食をしていたそうだ。特に兵の健康管理には力を入れ,兵の健康状態は最も良かった。健康の目安は兵の平均体重だ。師団には野戦病院が帯同する。どんな病気に罹患しているのかとか検査記録が残っている。戦争末期には栄養不足による下痢患者が増えてくる。補給が途絶え敗走して軍司令部に辿り着き,レイテ島のある師団長が参謀から缶詰を食事に出され,涙を流しながら食べたとの参謀手記がある。また,米軍が上陸しなかった小笠原諸島防備のある師団長は飢えてもいないのに酒のツマミとして米兵捕虜の肝を食べてしまった。
米軍が沖縄を占領すると伊江島が陸軍戦闘機隊の基地となった。戦闘機の主力は P-47 だった。護衛空母に積載されて移動する事もあったが,ハワイから空輸で進出する事もあった。一方,トラックからラバウルへ自力進出する陸軍の三式戦(飛燕)は命がけだった。4隻の空母を失ってからは陸軍戦闘機は自前の輸送(九州,台湾,比島そしてニューギニア)へとなり海軍とは別ルートと補給廠を設置していた。なにもかも不足していたのに,同じ戦闘機でありながら全てが違っていた。輸送船が極度に不足しているのに輸送の合理化を図られる事はなかった。輸送には当たり前の三角配送を誰も提案しなかった。
サイパンが危なくなり,急遽セメント建設資材を輸送しようとしても輸送船が潜水艦で沈められた。それでも侵攻20日前になっても,貴重な資材を投入して役に立たない滑走路の建設を続けていた。水際に配置された陸軍部隊は空爆艦砲に耐える陣地もなく,身を曝しながら壊滅していった。まともな戦闘教範もなく,軍司令官師団長の力量に依存していた。多くは中央から派遣された愚昧な参謀に作戦計画の立案をまかせたままであった。明治時代の教本に即した陣構えで兵士は戦った。官僚組織とは不思議なもので発展するどころか,陸海軍に限れば退化していた。
歴史の教訓に従えば,自衛隊も設立当時と比較すると,治安出動を嫌がったところをみると退化しているのだろう。ようするに警察のような暴徒を鎮圧する汚れ仕事は嫌だったのか。航空会社がやるような分解整備のできない空自,昔同様,商船護衛に関心の薄い海自。戦前,軍を掌握監督できる指導者がいなかったし,自衛隊の現状をみると昔と変わらない。安倍氏の目指す集団自衛権の実体は各種法律改正による国民統制だろう。しかし,30年後自治体が崩壊するのに,これら統制強化はどれだけ役に立つだろうか。日本の官僚は中国共産党による若者の下放政策を参考に都市圏未婚男女の強制移動を検討するかもしれない。日露戦争で与謝野晶子が反戦歌を唄い,その後 1932年には好戦的な歌を上梓している。30年で戦争に対する気分が変わっている。
さて,日本人が憤慨激昂するような殺傷事件がいつ起きるか。いきなり戦争にはならない。合衆国が介入しないような事件が起きて,武力衝突となるのであろう。そのような事案(事変)に対処(計画)するために法改正は必要なのだ。その前に,陸自弾薬の備蓄を調べたら 110kt らしい。日本は 1944 年に 45kt の火薬を生産した。米国は 1,143kt だった。小銃弾の火薬重量比は0.5程度。戦車砲では1程度。太平洋戦争中の2年分ほどしかない。ちなみに長引いたベトナム戦争では 7,550kt の爆弾と 1,540kt の砲弾を米軍は消費した。トンキン湾沖の南シナ海で常時,2隻の米空母がヤンキーステーションとして北爆していた時代が50年前にあったが,その海で中越が紛争を起こしている。ベトナムもフィリッピンも元は華南人が移り住んだ。今ではナショナリズムが反中国となってしまった。華南の海民が自由に行き来していたのが,プロパンガダだろうが漁民を訓練して民兵としている中国TV局の放送があった。歴代,中国は面子(建前)と実体が甚だ異なる官僚統治だった。日本とベトナムから反発をかった掘削装置。中国の石油閥と習近平との内部闘争が伝えられていたけど,海警はどうなっているのか。
とにかく,華南海民系は鼻緒のある履物文化圏だ。ベトナムから日本までの広がりをもつ。日本では椰子の道として知られる。稲栽培の文化圏でもある。この文化圏のなか,異民族を侵略したのは日本とタイしかない豊かで平和な地域だった。シナ海に石油資源が埋蔵されているとわかり,中国は国力を背景に乗り出した。第一次世界大戦後,戦勝国の米英仏が中東の石油資源を分割したのが想い起こされる。シナ海の海洋資源は中国が奪取するのは自明だろう。毛沢東は満州の油田開発に成功すると,勝利油田と大慶油田と命名し,ソ連の影響を嫌い中ソ対決に踏み切った。シナ海から天然ガスが噴出するようになったら,中国の官僚はどんな暴走をするのだろうか。太古の時代,スンダランドと呼ばれる大陸が存在した地域と南シナ海は連なっている。東シナ海は満州の油田とつながっているのだろう。中国官僚の戦略思考は狡猾な米英仏なみに優れていると認めざるを得ない。
戦前,陸海軍は自前の工廠を保有し兵器を生産していた。各工廠は特別会計で議会の承認は不要だった。その最大品目は弾だった。ここでも非効率が甚だしかった。太平洋戦争末期,本土決戦を控え根こそぎ動員で兵士は確保したが,銃火器が不足していた。師団を創設しても銃がないのだ。さらに,酷いのは本土上陸に備えて九州では小銃弾すら充足率は半分,大砲弾に至っては1/3以下だった。弾を独占的に製造していたのが陸軍工廠だった。戦争末期になって,生産拡大に方針を変えた。生産管理工学に長けていると思われる,数学者に調査を依頼すると,とんでもない不良率を出していた。製造装置は日露戦争当時のままだったという笑えない実話がある。ソ連の官僚も非効率だったが,弾薬の生産は日本のように低調になる事はなかった。恐らくソ連では生産が滞ると責任者が粛清されたのであろう。日本では何故,このような事態に至った理由は官僚の無謬性にある。なぜ日本官僚が無謬なのか,それは天皇の臣下だったからだ。大和民族存亡をかけた戦争を発起しながらずいぶんと間の抜けた話だ。しかも工廠責任者,高級技術将校は陸海軍大学校および東大卒の軍事および技術官僚達だった。日清戦争では各藩が保有した雑多の小銃を整理して戦争に入り,弾の補給に大きな関心を払っていたのだが。
小銃弾の品質管理の重要性にいちはやく気づいたのは,ナポレオンが実権を掌握する直前の革命政府下のフランスだった。標準規格化を試みたが,上手くいかなかった。かの有名なジェファーソンがフランス滞在中 (1785-1789) に規格互換性に着目し,その概念を合衆国に移植した。凡庸だが偉大なこの技術を日本が戦後アメリカら学びデミング賞を創設した。
太平洋戦争において,日本陸海軍の戦闘機は計5種類の20mm機銃弾を使用した。米陸海軍戦闘機は統一銃弾 12.7mm 弾だった。ラバウルに日本陸軍機が飛来しても,弾がない。海軍には弾に余裕があっても戦闘機が損耗してなかった。陸海軍の既得権益が機銃弾の統一を妨げた。米軍はガダルカナル,レイテのタクロバン等では弾の相互融通があったに違いない。ガダルカナルでは海軍提督が陸軍戦闘隊を指揮していた。その後の上陸作戦では,陸海軍戦闘機隊は別々に侵攻し,沖縄でまた合同した。ただし,米陸海軍の間でも食事の違いは大きかった。サイパンには B-29 爆撃航空団の司令部があった。近くのグアムには太平洋艦隊司令部が真珠湾から移動していた。東京大空襲作戦を計画して悪名高いルメイがグアムのニミッツに招待されたとき食事のフルコースに驚いている。兵舎にはシャンデリアもあったそうだ。日本陸軍の参謀がトラック島,在伯中の大和内の連合艦隊司令部に招かれたときの食事の豪華さにも驚いている。戦艦大和には食糧用の冷凍冷蔵庫設備があった。横須賀のカレー大会では潜水艦の糧食がトップになった。父は海兵団に徴兵されたあと,駆逐艦に乗り込んだ。食事は豪華だったという。陸海軍が仲が良くないのは食事の差だと言っていた。東條は師団長になっても,兵卒と同じ粗食をしていたそうだ。特に兵の健康管理には力を入れ,兵の健康状態は最も良かった。健康の目安は兵の平均体重だ。師団には野戦病院が帯同する。どんな病気に罹患しているのかとか検査記録が残っている。戦争末期には栄養不足による下痢患者が増えてくる。補給が途絶え敗走して軍司令部に辿り着き,レイテ島のある師団長が参謀から缶詰を食事に出され,涙を流しながら食べたとの参謀手記がある。また,米軍が上陸しなかった小笠原諸島防備のある師団長は飢えてもいないのに酒のツマミとして米兵捕虜の肝を食べてしまった。
米軍が沖縄を占領すると伊江島が陸軍戦闘機隊の基地となった。戦闘機の主力は P-47 だった。護衛空母に積載されて移動する事もあったが,ハワイから空輸で進出する事もあった。一方,トラックからラバウルへ自力進出する陸軍の三式戦(飛燕)は命がけだった。4隻の空母を失ってからは陸軍戦闘機は自前の輸送(九州,台湾,比島そしてニューギニア)へとなり海軍とは別ルートと補給廠を設置していた。なにもかも不足していたのに,同じ戦闘機でありながら全てが違っていた。輸送船が極度に不足しているのに輸送の合理化を図られる事はなかった。輸送には当たり前の三角配送を誰も提案しなかった。
サイパンが危なくなり,急遽セメント建設資材を輸送しようとしても輸送船が潜水艦で沈められた。それでも侵攻20日前になっても,貴重な資材を投入して役に立たない滑走路の建設を続けていた。水際に配置された陸軍部隊は空爆艦砲に耐える陣地もなく,身を曝しながら壊滅していった。まともな戦闘教範もなく,軍司令官師団長の力量に依存していた。多くは中央から派遣された愚昧な参謀に作戦計画の立案をまかせたままであった。明治時代の教本に即した陣構えで兵士は戦った。官僚組織とは不思議なもので発展するどころか,陸海軍に限れば退化していた。
歴史の教訓に従えば,自衛隊も設立当時と比較すると,治安出動を嫌がったところをみると退化しているのだろう。ようするに警察のような暴徒を鎮圧する汚れ仕事は嫌だったのか。航空会社がやるような分解整備のできない空自,昔同様,商船護衛に関心の薄い海自。戦前,軍を掌握監督できる指導者がいなかったし,自衛隊の現状をみると昔と変わらない。安倍氏の目指す集団自衛権の実体は各種法律改正による国民統制だろう。しかし,30年後自治体が崩壊するのに,これら統制強化はどれだけ役に立つだろうか。日本の官僚は中国共産党による若者の下放政策を参考に都市圏未婚男女の強制移動を検討するかもしれない。日露戦争で与謝野晶子が反戦歌を唄い,その後 1932年には好戦的な歌を上梓している。30年で戦争に対する気分が変わっている。
さて,日本人が憤慨激昂するような殺傷事件がいつ起きるか。いきなり戦争にはならない。合衆国が介入しないような事件が起きて,武力衝突となるのであろう。そのような事案(事変)に対処(計画)するために法改正は必要なのだ。その前に,陸自弾薬の備蓄を調べたら 110kt らしい。日本は 1944 年に 45kt の火薬を生産した。米国は 1,143kt だった。小銃弾の火薬重量比は0.5程度。戦車砲では1程度。太平洋戦争中の2年分ほどしかない。ちなみに長引いたベトナム戦争では 7,550kt の爆弾と 1,540kt の砲弾を米軍は消費した。トンキン湾沖の南シナ海で常時,2隻の米空母がヤンキーステーションとして北爆していた時代が50年前にあったが,その海で中越が紛争を起こしている。ベトナムもフィリッピンも元は華南人が移り住んだ。今ではナショナリズムが反中国となってしまった。華南の海民が自由に行き来していたのが,プロパンガダだろうが漁民を訓練して民兵としている中国TV局の放送があった。歴代,中国は面子(建前)と実体が甚だ異なる官僚統治だった。日本とベトナムから反発をかった掘削装置。中国の石油閥と習近平との内部闘争が伝えられていたけど,海警はどうなっているのか。
とにかく,華南海民系は鼻緒のある履物文化圏だ。ベトナムから日本までの広がりをもつ。日本では椰子の道として知られる。稲栽培の文化圏でもある。この文化圏のなか,異民族を侵略したのは日本とタイしかない豊かで平和な地域だった。シナ海に石油資源が埋蔵されているとわかり,中国は国力を背景に乗り出した。第一次世界大戦後,戦勝国の米英仏が中東の石油資源を分割したのが想い起こされる。シナ海の海洋資源は中国が奪取するのは自明だろう。毛沢東は満州の油田開発に成功すると,勝利油田と大慶油田と命名し,ソ連の影響を嫌い中ソ対決に踏み切った。シナ海から天然ガスが噴出するようになったら,中国の官僚はどんな暴走をするのだろうか。太古の時代,スンダランドと呼ばれる大陸が存在した地域と南シナ海は連なっている。東シナ海は満州の油田とつながっているのだろう。中国官僚の戦略思考は狡猾な米英仏なみに優れていると認めざるを得ない。
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